日本書紀巻第三の一

(岩波文庫　日本書紀　坂本太郎･家永三郎･井上光禎･大野晋　校注　を読む。)
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神日本磐余彦天皇（かむやまといはれひこのすめらみこと）　　神武天皇（じんむてんわう）

神日本磐余彥天皇　諱彥火々出見　彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也　母曰玉依姬　海童之少女也　天皇生而明達　意礭如也　年十五立爲太子　長而娶日向國吾田邑吾平津媛　爲妃　生手硏耳命　

神日本磐余彦天皇、諱（ただのみな）は彦火々出見（ひこほほでみ）。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊（ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと）の第四子（よはしらにあたりたまふみこ）なり。母（いろは）を玉依姫（たまよりびめ）と曰（まう）す。海童（わたつみ）の少女（おとむすめ）なり。天皇（すめらみこと）、生（あ）れましながらに明達（さか）し、意（みこころ）、礭如（かたくつよ）くます。年（みとし）十五（とあまりいつつ）にして、立（た）ちて太子（ひつぎのみこ）と爲（な）りたまふ。長（ひととな）りたまひて日向国（ひむかのくに）の吾田邑（あたのむら）の吾平津媛（あひらつひめ）を娶（ま）きて、妃（みめ）としたまふ。手硏耳命（たぎしみみのみこと）を生（う）みたまふ。

注に、神日本は美称、磐余は大和の地名（奈良県磯城郡桜井町･安部村･香具山村付近）、桜井町谷には磐余山がある。兄磯城の軍のいた所として磐余邑が見え、磐余は後に度々皇居の地に選ばれた、とある。このことから、この名は磐余に拠点を置いて以降に用ゐられる名であり、それまでは、諱、彦火々出見、であったといふ。本名は狭野尊といふ解釈もできる。諱は実名を忌避する中国の風習、この俗が一般化したのは、名字の制が普及した春秋期以降のこと、史記、秦本紀に「秦の俗、忌諱の禁多し」とある（字統）。孔子は丘が本名であるが諱は仲尼であった。このことで混乱が起こらないように彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也　母曰玉依姫　海童之少女也と念をおしている。吾田邑は祖父の母方の邑、再度縁組で絆を固めた。
明達は、漢書・高帝紀に「性明達　好謀能聴」、明らかに事理に通じる（角川漢和中辞典）義。注に、礭は、広雅、釈古に「堅也]名義抄に「礭、カタシ」とある。霍は、にわか、はやい、刀の光るさま、意礭如也は、決断の素早さと確固さをいふ。
○×耳命といふ命名があり、皇子の尊称のやうなもので、手硏”たぎし”に意味があらう。手硏は手で研（みが）くこと、”たぎし”は”たぎつ”水の勢いが強くて下から湧き上がるようになることの形容詞。注には”たぎし”は足など萎えて直立しないことで、耳の形が曲がりくねっていることとしているが、湧き上がる水のごとき命（みこと）とみておきたい。
史記、三皇本紀に、「一説に、三皇とは天皇、地皇、人皇を謂ひて三皇と為す。…天地初めて立つや天皇氏有り。十二頭…兄弟十二人、立ちて各々一萬八千歳。地皇は十一頭…姓十一人、…亦立ちて各々萬八千歳。人皇は九頭…兄弟九人、分ちて九州に長たり。各々城邑を立つ。凡そ一百五十世、合わせて四万五千六百年。…開闢より獲麟（魯の哀公十四年）に至るまで凡そ三百二十七萬六千歳、分ちて十紀と為す。」とある。（三皇本紀は唐の司馬貞の補筆で司馬遷の著作ではない。）（明治書院）
天皇を”すめらみこと”と訓じている。日本では天皇、地皇、人皇といふ考え方はない。この基準からすれば、神日本磐余彥人皇が妥当なところであらう。中国とは非なる天皇といふ詞が導入された。日本で独自の展開をみせることになる。”すめら”は統べるとする説があるが”すめ”の”め”が甲類で乙類の”べ”は通じないとする。吉田金彦氏の「清（す）めら」説、皇は鉞頭の玉の光、”すめら”も玉の清光、”すめらみこと”を”すめろき”ともいい、自らを”すめらわが”直属軍を”すめらみくさ”という（字訓）。日本では清浄なる光を最高位とする伝統があり、それを天皇とみる用法が定着したやうに思はれる。
神武天皇という漢風諡号は、この編纂時にはなかったもので、注に、釈紀、述義五に、「私記曰、師説　神武等諡号者淡海御船奉勅撰也」、この私記は元慶か承平・延喜の公望私記と考へられ、淡海御船が与へた諡号は神武から持統、元明・元正くらいでないかとされ、中国では、周代から始っており、文字選択を記した、周書、諡法解を最古のものとあげている。ちなみに、明治は周易説卦伝の「聖人南面而聴天下向明而治」、大正は周易の「能止健大正」、また、「剛中而応大亨以正天之道也」、昭和は書経堯典の「百姓昭明協和萬邦」、平成は、史記・五帝本紀の「内平外成」、書経・大禹漠の「地平天成」からとられている。

及年卌五歳　謂諸兄及子等曰　昔我天神　高皇產靈尊　大日孁尊　擧此豐葦原瑞穗國　而授我天祖彥火瓊々杵尊　於是　火瓊々杵尊　闢天關披雲路　駈仙蹕以戻止　是時　運屬鴻荒　時鍾草昧　故蒙以養正　治此西偏　皇祖皇考　乃神乃聖　積慶重暉　多歴年所　自天祖降跡以逮　于今一百七十九萬二千四百七十餘歳

年四十五歳（よそあまりいつつ）に及（いた）りて、諸（もろもろ）の兄（いろね）及び子等（みこたち）に謂（かた）りて曰（のたま）はく、「昔（むかし）我（わ）が天神（あまつかみ）、高皇産霊尊（たかみむすひのみこと）、大日孁尊（おほひるめのみこと）、此の豊葦原瑞穗国（とよあしはらのみづほのくに）を擧（のたまひあ）げて、我が天祖（あまつみおや）彦火瓊々杵尊（ひこほのににぎのみこと）に授（さづ）けたまへり。是（ここ）に、火瓊々杵尊、天関（あまのいはくら）を闢（ひきひらく）らき雲路（くもぢ）を披（おしわ）け、仙蹕駈（みさきはらひお）ひて戻止（いた）ります。是の時に、運（よ）、鴻荒（あらき）に屬（あ）ひ、時、草昧（くらき）に鍾（あた）れり。故（かれ）、蒙（くら）くして正（ただしきみち）を養（やしな）ひて、此の西の偏（ほとり）を治（しら）す。皇祖皇考（みおや）、乃神乃聖（かみひじり）にして、慶（よろこび）を積（つ）み暉（ひかり）を重（かさ）ねて、多（さは）に年所（とし）を歴（へ）たり。天祖の降跡（あまくだ）りましてより以逮（このかた）、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳（ももよろづとせあまりななそよろづとせここのよろづとせあまりふたちとせあまりよほとせあまりななそとせあまり）。　

關(関)は、かんぬきを施すこと。闢は門の両扉を開くこと、邪悪を祓う辟邪の意がある。披は獣の皮を披（ひら）きとること（字統）。駈は駆の俗字、悪邪を追放すること、駆除とは道を清め、露払いすること。蹕は払正すこと、天子の行幸のときの警蹕、漢書、韓安国伝に「出づるに蹕と称し、入るに警と言う」（字統）。仙は僊が正字、死者を他に遷すこと、その人を僊という。その僊が山中に住んで永生を得ると考えられ仙の字が作られた。すべて現実を超えた世界を仙といい、天子や上皇のことに冠して、仙遊、仙洞のように用いる（字統）。戻は、詩、小雅、四月に「高く飛んで天に戻（いた）る。」魯頌、泮水に「魯候戻（いた）る。」とある（字統）。
運の軍は車上に旗をたてて、車の方向を指示し、旋回することが原義、運はその行動をいい、めぐる、はこぶこと（字統）。屬はつらなることであるが注に、広韻に「会也」とある。鴻は白鳥、詩の小雅、鴻雁、「鴻雁ここに飛ぶ」の毛伝に、「大を鴻、小を雁という。ゆえに鴻大の意となる。」荒は荒野に残された死者の残骨になお髪の存する形、すべて生気を失い秩序を失った状態。散（あら）くことによって生じる。上代語では荒（あら）は荒御魂（あらみたま）また”荒ぶる”のように、和（にき）に対する重要な概念。鍾の重は嚢の底におもりをつけた形、もと容量をいう語で、説文に「酒器なり」、玉篇に「聚（あつま）るなり」とある。”あたる”当るは相手の方からあたること（字訓）。昧はまさに夜があけんとするてまえ、したがって”くらい”の義がある。草昧は世の中の秩序がまだたたず、天下の定まらない時のこと（易、屯卦）、世のあけはじめ（角川漢和中辞典）。蒙は獣皮で身をおおうことが原義、おおうところから蒙昧の意に用いる（字統）。
彦火瓊々杵尊を天祖と称している。この天祖は日本では天皇の祖を意味し、皇孫、彦火瓊々杵尊を指しているが、中国では何を指すのか不明とならう。天といふものを生んだ祖先、哲学的な問題である。皇祖は天子の祖先、日本では天皇の先祖で、天照大神を想定している。皇考は亡父の敬称、日本では天皇の亡父、先代の天皇となる。天照大神以降の神々、尊や命であるが聖を加へている。聖（ひじり）とは、もとは”日を知る、占る”で天皇をさしたが、のち仙、仏の行者をいう語となる（字訓）。暉は、王融、曲水詩序に「雨に潤ひ星に暉（ひか）る」のように星の光をいうことが多い（字統）。跡は、釈名、釈言語に「跡は積なり、積累して前（すす）むなり」、あしあと、ふむ、たづねると訓じる（字統）。

中国古典の表現を散りばめ、中国の天子であるかのごとき調子で記されている。神代とは切り離して、この巻から独自に読み始めることを前提としているやうな書き方である。外国人にはここから読ませればよいといはんばかりである。我天神、高皇産霊尊、大日孁尊（天照大神）と我を加へて”我が方”つまり”日本の”と強調をする。”豊葦原瑞穗国”を”豊葦原瑞穗地”ではなく国、国家と印象付ける。天界には門があり、その”かんぬき”をはずして両に扉を開き、獣の皮を剥ぐように雲の中の路を見つけ出し、悪邪を祓ひ、払ひ、天界を出でて豊葦原瑞穗国に至る。この時、豊葦原瑞穗国は大きに”あらぶる”ものめぐり、つらなり、時としては、国が開かれるまへにあたり、薄暗いものにおほはれていた。正を養ひこの西方の周辺（日向）をおさめた。慶を積み暉を重ね、ひたすら正を養ふこと一百七十九萬二千四百七十余年、神日本磐余彦天皇、四十五歳の時に意を決す。
この年月は神代紀を読んできた場合には成立しない。皇孫、彦火々出見尊、鸕鷀草葺不合尊、磐余彦尊の四世代で一百七十九萬二千四百七十余年は意味不明となる。天祖の天降跡（あまくだ）りから初代天皇まで、たった四代でどうしてこうなるのか？
中国の天皇とは全く異なる日本の天皇、中国ならば人皇にあたる。中国では王朝を営むには天文観測を行ない、暦を管理することが必須であった。漢書律暦志によれば、「帝顓頊が南正の官の重に命じて天を司らせ、火正の官黎に地を司らせた。その後三苗の族がこの顓頊の秩序を乱した結果、南正と火正の二官はすっかりすたれてしまい、閏日をどのように配置してよいか見失はれてしまった。暦のうえでの正月は天の現象とすっかり食い違ひ、北斗の指す摂堤の方位は暦と合はなくなった。そこで帝堯は再び、重と黎の子孫を教育してその業務をつがせた。これが羲（ぎ）と和（か）である。
戦国の世に暦を司どる世襲の官の子孫が分散し、暦の乱れを正すことができなくなった。秦が天下を統一したときには五行相勝説を推進し、十月を正月とした。
漢は秦の暦法を受け継ぎ、顓頊暦を採用したが、合はず、太初の暦を造らせることとなった。東西の方位を決定し、晷儀（ノーモン）を立て、水時計を動かし、それらを基準にして二十八宿を追跡し、それらの四方における位置を決め、数値を整頓して朔と晦、春分、夏至、秋分、冬至、日月の運行、月の満ち欠けの日を決定することになった。
その結果、前暦の上元秦初から四六一七歳を経た元封七年になると、ふたたび閼逢・摂堤格という歳に復帰し、仲冬の十一月甲子の日の朔の旦に冬至がくるという状態になり、日と月は建星の位置にきて、太歳は子の方位にくることが判明した。」
「黄鐘の管は一龠の容量があり、その容積が八十一（810立方分）であるから、それが一日の長さの分母（日法は八十一）にあたる。この日の分母は、音律の管の長さと完全に相応じた数である。この律管の長さは九寸であり、この九に百七十一を掛けると（1539年=562120日となり）、日の端数がなくなって一周期が終わり、季節・月相は同日同時刻に復帰する。こうした復帰を三たび繰り返すと（日数が60の整数倍となり）、甲子、すなわち日の干支も始めと同一にもどってくる。いったい、律とは、陰陽とその展開としての九（陽）・六（陰）の爻と象とが、そこから出てくるものである。だから、黄鐘が万物の始元の気を統制することを、律というのである」。
この暦では、１月が29と43/81日。19年に閏月7月を設けると、季節と月相は19年前の状態にほぼ戻る。この19年を１章と称した。12x19+7=235ヵ月。この１章の日数は（29と43/81）x235＝6939と61/81日で日の端数がでる。9x17１は1539で19x81。81章（1539年）で日の端数はなくなる。81x（6939と61/81）＝562120日。１年は365と385/1539日（562120日÷1539年）とされた。1539年562120日の３倍は1686360日で60の整数倍となる。これは1539年x3＝4617年。数的根拠である。
これは三統暦と称されるものであるが、この暦で計算すると、上元の歳から殷王紂を伐った歳までは十四万二千百九歳、そのとき木星は十二次の鶉火の次にあり二十八宿の張宿の13度にあった（漢書律暦志、中国の科学、世界の名著）。書紀の編者も日本の王朝も暦を管理しているところを見せたい。どのようにして算出されたものかは分らないが、一百七十九萬二千四百七十余年という算出結果を記載した。注に、唐の武徳九年に造られた戌寅元暦の上元戌寅の年を天孫降臨の年とする計算（飯島忠夫説）とある。平成の学者がビッグバン宇宙論で宇宙の年齢を150億年といふやうなもので、それなりの計算法があった。

而遼邈之地　猶未霑於王澤　遂使邑有君　村有長　各自分疆　用相凌躒　抑又聞於鹽土老翁　曰　東有美地　青山四周　其中亦有乘天磐船而飛降者　余謂　彼地　必當足以恢弘大業　光宅天下　蓋六合之中心乎　厥飛降者　謂是饒速日歟　何不就而都之乎　諸皇子對曰　理實灼然　我亦恆以爲念　宜早行之　◎是年也　太歳甲寅
而（しか）るを、遼邈（とほくはるか）まる地（くに）、猶（なほ）未だ王沢（みうつくしび）に霑（うるほ）はず。遂に邑（むら）に君（きみ）有りて、村（ふれ）に長（ひとこのかみ）有りて、各自（おのおの）疆（さかひ）を分（わか）ちて、用（も）て相凌（しの）ぎ躒（きしろふ）はしむ。抑又（はたまた）、鹽土老翁（しほつつのをぢ）に聞きき。曰（い）ひしく。『東（ひむがしのかた）に美（よ）き地（くに）有り。青山（あをやま）四周（よもにめぐれ）れり。、其の中に亦、天磐船（あまのいはふね）に乗りて飛び降る者有り』といひき。余（われ）謂（おも）ふに、彼（そ）の地（くに）は、必ず以（も）て大業（あまつひつぎ）を恢弘（ひらきの）べて、天下（あめのした）に光宅（みちを）るに足（た）りぬべし。蓋（けだ）し六合（くに）の中心（もなか）か。厥（そ）の飛び降（くだ）るといふ者（もの）は、是（これ）饒速日（にぎはやひ）と謂（い）ふか。何（なに）ぞ就（ゆ）きて都つくらざらむ」とのたまふ。諸（もろもろ）の皇子（みこたち）、対（こた）へて曰（まう）さく、「理實（ことわり）灼然（いやちこ）なり、我（おのら）も恆（つね）に以て念（おもひ）としつ。早（すみやか）に行（おこな）ひたまへ」とまうす。◎是年（ことし）　太歳甲寅（きのえとら）

遼の寮にはめぐる火の意があり、説文に「遠きなり」とある（字統）。邈は楚辞、九章、懐沙に「邈として、慕ふべからず」とあるごとく、遠く隔絶すること（字統）。霑は雨に濡れて色のうつること、恩澤の人に及ぶことを霑沐という（字統）。澤は光潤う義があり、王澤を”みうつくしび”と訓じている。”うつくしび”は”うつくしぶ”の名詞形。肉親的な愛情、幼く小さなものをいつくしむ感情。邑は口（城壁）と巴（人の跪居するさま）で城中に人が多くいるさま、村は田野あるいは聚落をいう（字統）。注に”ふれ”は村の古語で朝鮮語maulの転とある。”きしろふ”は、争い競い合うこと、躒は車で轢いて軋み砕けること（字訓）。
恢は、説文に「大なり」とする（字統）。業は元来、版築によって城壁を作る土木工事をいうのであるが、易、乾卦、文言伝に「君子、徳を進め業を修む」、孟子、梁恵王に「君子、業を創め統を垂る」のように用いる（字統）。大業を”あまつひつぎ：天つ日嗣”と訓じている。日嗣とは天皇の位の尊称。注に、光宅は、尚書、序に「昔在帝尭・・・光宅天下」とある。大いに天下を宅（さだ）む、となる。六合とは東西南北上下で、その中心とは天子の宅（い）る所、中国。灼は、やく、あつい、あきらか、灼然は光が明らかなさま。”いやちこ”と訓じている。神仏の霊験などがいちじるしいこと、はなはだ明らかなこと（角川漢和辞典）。

自らは日向にいるが王沢有りと自負している。その他は邑に君、村に長が居る程度で相争っているのみ。鹽土老翁が、しかし、東によき地があるといふ。四周を山に囲まれ、その中に天磐船に乗って天地を往来する者がいるといふ。その地は、天皇の子孫をひろめ、天下を定め、国の中心とするにふさわしいと思った。饒速日がそこに居やうと、そこを都にすると決意を表明する。皇子らも、理においても實においても、あきらかなこと、そのことをいつも念じて、すみやかにそこへ行こうと同意する。是の年、太歳は甲寅であった。
歳は木星、木星は天球を十二年で一周する。木星の運行する道筋の星座（宿）を十二の次（やどり）に分け、木星のある次によって歳（年）を定めた。歳星運行方向の鏡像が太陰とされ、地上では年は辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、子、丑、寅、卯の順に運行することとなる。辰から始まるのは、寿星が中央＜鈞天＞で大火が東天＜蒼天＞、玄枵が北天＜玄天＞、大梁が西天＜昊天＞、鶉火が南天＜炎天＞とされたことによる。この天の十二次の辰～卯の鏡像が、地の十二支として方位名にも、あるいは十二月として月名にも用いられた。歳は木星、太歳は太陰上を動く木星。太歳甲寅は木星の位置ではなく、十干（甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸）十二支（子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥）による60年の表記のひとつ。このような表記は中国史書では見られず、百済本紀の表記を踏襲しており、甲寅は爾雅の「十干先甲、十二支先寅」からくると注にある。
漢の暦では十干十二支は甲子に始るが、爾雅では「太歳の寅に在るを摂堤格（星の名で、格は起こす意で、万物が陽気を受けて起こる）と曰く」とあり甲寅に始る（水上静夫；干支の漢字）。爾雅は周公、旦が魯公として編纂したもの（戦国時代の編纂とされている）。周公、旦とは孔子が夢にまで見て、その政治を復興せんとした周の宰相である。十干十二支は元来、単なる年号表記の記号であるが、前漢末から後漢末に「讖緯暦運説」が流行して、辛酉は天命が革まって革命がある、甲子の年には政治上の大きな革令（革政）がある、一元(60年；還暦）にして身体構造の上に変化が起こる、一蔀（ぼう）（21元:1260年）にして政体上の大変化が起こるといった意味が付与されるに到った（水上静夫；干支の漢字）。磐余彦尊が東行を決意した歳を甲寅、先になるが、神日本磐余彦天皇と即位する歳を辛酉としているのは、讖緯暦運説を意識したものであらう。
史記によれば、中国の伝説の帝、堯は立ちて七十年にして舜を得、二十年にして老し、舜に摂政せしめて二十八年にして崩じる。舜は年六十一にして帝位につき、三十九年に崩じている。堯は118年以上生きており、舜は100年生きている。また、老子は160～200歳、殷の大夫、彭祖は800歳生きたと伝承があり、孔子は73歳で亡くなっている。
天武天皇が即位されたのは673年2月27日、壬申の乱の翌年癸酉のことである。これを21元1260年溯るとBC586年乙亥となる。紀元前と紀元後は数学的には０が基点となりBC587年となるべきであるが、0年という年の設定ができずいきなり1年から始めるため、1年引くことになる。その14年前が辛酉、これでは在位期間が短すぎるので、そのもう一元60年前の辛酉となれば、BC660年となる。
実際どうして年月を積算して月日を特定したのか分らないが、暦博士を動員して、中国の記述に見劣りせぬやう、天皇の事績を時系列に記さんとした。書紀の編者は、天武朝が暦を管理して史書を編纂する正統王朝であるといいたかった。
国立国会図書館、「日本の暦」年表によれば、百済に暦博士・暦本を求めたのが欽明14年（553年）、翌年百済の暦博士固徳王保孫、暦法をもたらす。推古12年（604年）、初めて元嘉暦を用いる。文武元年（697年）、元嘉暦を廃し儀鳳暦を用いている。注に、唐の武徳九年に造られた戌寅元暦を用いて天孫降臨の年を求めたとあった。同上「暦の歴史」によれば、平安時代の貞観4年（862）から中国の宣明暦（せんみょうれき）をもとに毎年の暦を作成してきたが、800年以上もの長い間同じ暦法を使っていたので、暦と日蝕や月蝕などの天の動きが実態と合わなくなっていたとある。天文観測に基づき、初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められたのは、貞享2年（1685）、渋川春海（しぶかわはるみ　1639～1715）、「貞享の改暦」とされる。その意味では江戸幕府に至りやっと正統王朝並になったといへやうか。

其年冬十月丁巳朔辛酉　天皇親帥諸皇子舟師東征　至速吸之門　時有一漁人　乘艇而至　天皇招之　因問曰　汝誰也　對曰　臣是國神　名曰珍彥　釣魚於曲浦　聞天神子來　故卽奉迎　又問之曰　汝能爲我導耶　對曰　導之矣　天皇勅授漁人椎㰏末　令執而牽納於皇舟　以爲海導者　乃特賜名　爲椎根津彥【椎　此云辭毘】此卽倭直部始祖也　行至筑紫國菟狹　【菟狹者地名也　此云宇佐】　時有菟狹國造祖　號曰菟狹津彥　菟狹津媛　乃於菟狹川上　造一柱騰宮而奉饗焉　【一柱騰宮　此云阿斯毘苔徒鞅餓離能宮】是時　勅以菟狹津媛　賜妻之於侍臣天種子命　天種子命　是中臣氏之遠祖也

其の年（とし）（BC667.10.05）の冬十月丁巳（かむなづきのひのとのみ）朔（ついたち）辛酉（かのとのとりのひ:五日）に、天皇（すめらみこと）、親（みづか）ら諸（もろもろ）の皇子（みこたち）・舟師（みふねいくさ）を帥（ひき）ゐて東（ひむがし）を征（う）ちたまふ。速吸之門（はやすひなと）に至ります。時に一（ひとり）の漁人（あま）有（あ）りて、艇（をぶね）に乗（の）りて至れり。天皇、招（めしよ）せて、因（よ）りて問ひて曰（のたま）はく、「汝（いまし）は誰（た）そ」とのたまふ。対（こた）へて曰（まう）さく、「臣（やつかれ）は是（これ）国神（くにつかみ）、名をば珍彦（うづひこ）と曰（まう）す。曲浦（わだのうら）に釣魚（つり）す。天神（あまつかみ）の子（みこ）来（い）でますと聞（うけたまは）りて、故（こと）に即ち迎（むか）へ奉（たてまつ）る」とまうす。又問ひて曰（のたま）はく、「汝、能（よ）く我（わ）が為（ため）に導（みちびき）つかまつらむや」とのたまふ。対（こた）へて曰（まう）さく、「導（みちび）きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅（みことのり）をもて漁人（あま）に椎㰏（しひさを）が末（すゑ）を授（さしわた）して、執（とら）へしめて、皇舟（みふね）に牽（ひ）き納（い）れて、海導者（みちびきひと）とす。乃（すなは）ち特（こと）に名を賜（たま）ひて、椎根津彦（しひねつひこ）とす。【椎　此（これ）をば辭毘（しひ）と云ふ】。此（これ）即ち倭直部（やまとのあたひら）が始祖（はじめのおや）なり。行きて筑紫国（つくしのくに）の菟狹（うさ）に至ります。【菟狹は地（ところ）の名なり。此をば宇佐（うさ）と云ふ】。時に菟狹国造（うさのくにのみやつこ）の祖（おや）有（はべ）り、号（なづ）けて菟狹津彦（うさつひこ）・菟狹津媛（うさつひめ）と曰（い）ふ。乃ち菟狹の川上（かはかみ）にして、一柱騰宮（あしひとつあがりのみや）を造りて饗奉（みあへたてまつ）る。【一柱騰宮　此をば阿斯毘苔徒鞅餓離能宮（あしひとつあがりのみや）と云ふ】。是の時に、勅（みことのり）をもて、菟狹津媛を以（も）て、侍臣（おもとまへつきみ）天種子命（あまのたねのみこと）に賜妻（あは）せたまふ。天種子命は、是中臣氏（なかとみのうぢ）の遠祖（とほつおや）なり。

甲寅の年の辛酉の日に、いきなり天皇親帥、東征とある。親帥は将軍に任せるのではなく自ら軍を率ゐること、征とは行きて秩序の乱れを正すこと（軍事行動に限定されない）、政は攵（鞭；むち）をもちて秩序の乱れを正すことが原義。中国の天子の行動である。まだ即位もせぬ磐余彦尊の行動を形容するにはあまりにも不適当であると異論を唱えた者があったかもしれないが、書紀編者達はあえてそうした。
舟師は船に乗り込んだ師団（軍団）。師を”いくさ”と訓じている（字統）。”いくさ”は兵士、武器は”つはもの”といい、”つは”は鋭い声を形容する語。矢の的を”いくは”、”さ”は矢であり、”いくさ”は矢を射合う戦いをさす。軍は車の上に旗をたて全軍を指揮する様（字訓）。師は周代では2500人の軍隊を意味した。この東征は軍が先遣されるとしても、一族が移動する性格のものであり、大量の船を必要とする。古代では大量の物を遠路陸上輸送することはできなかった。天孫族が豊玉姫や玉依姫を妻としたのは、海神の海運力を求めてのことである。後漢書によれば、「安帝【後漢の第六代皇帝】の永初元年【西暦１０７年】、倭国王帥升等、生口百六十人を獻じ、見（まみ）ゆるを請願す。（後漢書東夷伝：古代史獺祭）」とあるように、北九州の倭の国ではその程度の人員と物資を中国に運ぶ船を有していた。
炭素14測定結果から、九州での弥生時代の土器に付着していた炭化物などの年代が紀元前約900～800年ごろに集中し、また、同時期と考へられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭2点の年代もほぼ同じ年代を示しており、弥生時代の開始が紀元前10世紀までさかのぼる可能性がでたとされる。（弥生時代の開始年代について；国立歴史民俗博物館）反論（歴博発表資料「弥生時代の開始年代について」を巡って；小林滋氏）もあり素人には分らないが正しければ、BC667年頃は稲作がすでに行なはれていたことになる。しかし、この時期（中国では春秋五覇の時代）の東征は中国の史書とは整合しない。後漢光武帝が「漢倭奴国王」の金印を倭人に授与したのがAD57年正月（年表：古代史獺祭）、東征が、これ以前ならば、王として漢との外交交渉にふれねばならず、その痕跡がないため成立しない、生駒以降の激しい戦いを考へ、倭国の大乱といはれるAD150年前後を考慮するやうである。
速吸之門は伊奘諾尊が黄泉から還る時、粟門と同じく流れが速くて避けた門。潮流の速い海峡、ここでは豊予海峡をさす。この難所を渡らうとするときに一人の漁人が現はれる。速吸之門は大分の佐賀関半島の一帯、複雑な海岸線で古代より海人族の住みついた処、曲浦と称している。古来より海上交通、漁労の盛んな土地、大友氏の時代には、水軍の基地とされ、明船やポルトガル船も寄港した（大分県古地名の語源と地誌）。国神、珍彦が水先案内をするために天神の子が来るのを待っていた。鹽土老翁や海神と通じているのであらう。全く戦うことなく菟狹に辿り着いている。天皇は椎の木（堅く質朴な木）の棹を珍彦に渡し、皇舟に乗り込ませ、珍彦はその棹で船団を宇佐に導く。椎根津彦の名を賜り、倭直部の始祖となる。
菟狹は宇佐、”うさ”は”う”（海）、”さ”（砂、浜）か”ゆさ”、”ゆ”（水）、”さ”（砂）、”いさ”（石砂）、”いさご”（砂子）であり、宇佐海岸は遠浅で古代は広大な砂浜であった。菟は音では”と、つ”であり”う”は”うさぎ”の”う”からとったもので、菟狹は由緒ある人名、地名とみせたかもしれない（大分県古地名の語源と地誌）とある。菟狹川上とは駅館川の上流のこと。安心院（あじむ）町佐田米神山に佐田京石、ストーンサークルがある。”あじむ”は”あし”（悪・忌）、”ふ”（処）で交通の難所の義、古来交通の要衝で駅路、駅舎が置かれ大宰府と豊後国府を結ぶ官道の由布駅に通じる（大分県古地名の語源と地誌）。菟狹津彦　菟狹津媛は菟狹の成年男子　菟狹の成年女子の義。騰は説文に「傳なり」とは駅伝の意とある（字統）。巨石の上の駅舎を宮として天皇を迎へ饗宴をすると解釈する。もっとも、この時期に駅の制度はないので、後世からみて駅舎にあたるやうな建物とならうか。注に一方は川岸、他方は川中の石にかかって作られた宮とある。本居宣長の説らしい。宇佐は吉備と通じており、菟狹川上は北九州への交通の要衝であり、ここを押さえたのは珍彦の進言であったらう。侍臣天種子命に菟狹津媛を娶わせており、天種子命に功績があったのかもしれない。注に、天種子命は釈紀に、「天児屋根命之孫天押雲命之子」とある。宇佐津臣命に連なる。これで天孫族と菟狹の連合が成立した。何故？菟狹や吉備が東征を望んでおり、その旗印に天孫族を迎へた。鹽土老翁や海神族がそれを仲介してきた。狭野尊、磐余彦尊に至りその器量ありとみなされた。武力でもなく財力でもない、天孫であり天皇であらねばならなかった。東に王沢を霑はすことが東征であった。天子は六合の中心、九州（八州+中央で九州）の中央にあってこそ天子といふのが中国の伝統である。

十有一月丙戌朔甲午　天皇至筑紫國岡水門

十有一月（しもつき）の丙戌（ひのえいぬ）朔（ついたち）甲午（きのえうまのひ；9日）に、天皇、筑紫国の岡水門（をかのみなと）に至りたまふ。

宇佐から一月後に岡水門に至るとあるが、全軍で行ったとは思はれない。注に、岡水門は福岡県遠賀郡蘆屋遠賀川河口附近とある。博多と下関の中間に位置する（町のプロフィール；遠賀町）。旧石器時代からの遺跡が集中する地域（遠賀町島津・丸山歴史自然公園）で早くから農耕が行なはれ、４世紀から古墳群が形成されることになる地といふ。菟狹川上において、一柱騰宮を訪れ、大宰府方面への備へをしたごとく、岡水門においても、北九州の勢力に対して、牽制をするために、土地の豪族を訪問し味方にしたのであらう。北九州の勢力とは事を構へず、東に向かふ方針であったやうだ。

十有二月丙辰朔壬午　至安藝國　居于埃宮

十有二月（しはす）の丙辰（ひのえたつ）の朔壬午（みづのえうまのひ；27日）に、安芸国（あぎのくに）に至りまして、埃宮（えのみや）に居（ま）します。

注に、埃はあ行の”え”で優れたの意味をもち、古事記では多祁理（たきり）宮で、”たけ（丈）””あり”の略、”え”と同義、埃宮は、広島県安芸郡府中町にあったとある。府中町の多家神社（延喜式神名帳）が別名多祁理宮または埃宮と称されている。岡水門から一月で埃宮に着いている。巻1の８に「素戔嗚尊　下至於安藝国可愛之川上」とあった。この場所が分らなかったが、広島県安芸高田市吉田町川本の「宮の城」それが「埃ノ宮神社境内」といふ伝承に出会った（安芸宮の城；山陽・山陰のお城、お城の旅日記）。府中町から北北東30kmの地点、安藝から出雲へ至るルートにあたる。これも、菟狹川上における、一柱騰宮と同じやうな位置となる。
北九州の勢力に対すると同様、出雲に対しても牽制する地点を確保するだけで、磐余彦尊は東に向かっている。それは、宇佐や吉備の勢力の意志が磐余彦尊に明快に伝へられていたことを意味しやう。当時、北九州や出雲でなく、目指すは東、といふ認識があったと解釈する。

乙卯年春三月甲寅朔己未　徒入吉備國　起行館以居之　是曰高嶋宮　積三年間　脩舟檝　蓄兵食　將欲以一擧而平天下也

乙卯年（きのとのうしのとし）の春（はる）三月（やよひ）甲寅（きのえとら）の朔己未（つちのとのひつじのひ；6日）（BC666.03.06）に、吉備国（きびのくに）に徒（うつる）りて入りましき。行館（かりみや）を起（つく）りて居（いま）す。是を高嶋宮（たかしまのみや）と曰（い）ふ。三年（みとせ）積（ふ）る間（あひだ）に、舟檝（ふね）を脩（そろ）へ兵食（かて）を蓄（そな）へて、將（まさ）に一（ひと）たび擧（あ）げて天下（あめのした）を平（む）けむと欲（おもほす）す。

出雲対策に手間取ったのか、季節の良くなるのを待って移動をはじめたのか、翌春に吉備に入る。高嶋宮の位置については、沼隈郡説・神島説・宮浦説・高島山説と諸説があるが、昭和13～15年文部省により児島郡甲浦村大字宮浦字高島（高島；岡山の嵐）が指定されたとされる。筆者は高島山説に引かれる。旭川の存在が大きい。古来水陸交通の要衝を占め、出雲との交渉に便利であり大陸の文化がこのルートでもたらされたこと。この川の沖積平野である高島の一帯は土地が肥え、作物が豊かに実り食糧を蓄へるのにも良かったこと、舟を造る木材の調達にも便利であったことがあげられている（吉備高島宮）。いづれにせよ、三年滞在して船舶や兵器や物資を調達したのであるから所縁のある地が多いのは当然であらう。
吉備は大和に次いで古墳の多い地とされる。岡山市津島では、河川の跡から、「弥生時代後期後半を中心に多量の土器や約1,000点にのぼる木製品、桃やウリの種子などの植物類、貝類、骨などが出土しています。中でも、河川斜面部から出土した木製品は種類も多様であり、斧・鍬・鋤などの柄や鍬、えぶり、竪杵、砧（きぬた）、代掻き（しろかき）などの農耕具、盾や刀装具などの武器、杓子や匙、容器（槽（そう））、蓋などの食事具、火きり臼、用途不明の装飾板などのほか建築部材を検出しています。」（所報吉備第30号；岡山県古代吉備文化財センター）とある。「岡山市川入遺跡から平成13（2001）年に出土したものが・・・薩摩半島指宿（いぶすき）温泉近くの揖宿郡山川町にある有名な成川遺跡で造られた「成川式土器」であることが判明した」（所報吉備第35号；岡山県古代吉備文化財センター）という。「久田堀ノ内遺跡では、大量の土器や石器・玉等が見つかっています。これらの中には、東北～北陸・関東・近畿地方との関わりを示す土器や、北九州産の可能性がある玉などがあります。さらに当遺跡で製作されている石器には香川県産のサヌカイトや島根県隠岐島（おきのしま）産の黒曜石なども使われています。このように多様な地域との交流を物語る遺物が出土しており、縄文人の活動範囲の広さに驚かされるとともに、この地を経由して盛んに人々が行き交った姿が想像されます。」（所報吉備第36号；岡山県古代吉備文化財センター）巻1の８に「素戔嗚尊　下至於安藝国・・・其斷蛇劒　號曰蛇之麁正　此今在石上也」という記述の石上神社が吉備にある（吉備の国歴史探訪：藤本典夫氏）。製鉄が行なはれるのはまだ先のことであるが、輸入、あるいは輸入されたものを変形した武器を扱っていたのであらう。
そして、天下を平定するとの決意が示される。これは、夫大己貴命　與少彦名命　戮力一心　經營天下とは異なる。京を目指した信長に近い。余謂　彼地　必當足以恢弘大業　光宅天下　蓋六合之中心乎、将に国の中心を目指し、新しい秩序をもたらさむの心境と書紀の編者はいいたかったのであらう。

三年の間、東有美地　青山四周　其中亦有乘天磐船而飛降者　余謂　彼地　必當足以恢弘大業　光宅天下　蓋六合之中心乎について情報を収集し、戦略を練ったことであらう。そこが六合の中心とあれば、その東には西の日向に相当する広がりがあるはずである。一体全体どんな族がいるのか？中心にいる饒速日は天から船で降ったといふ。これに対抗するためにこそ、天孫である磐余彦尊（彦火火出見尊の子孫）と隼人（火酢芹命の子孫）に目がつけられ、ここに召集されたはずである。
後漢書によれば、「倭在韓東南大海中依山㠀為居　凡百餘國　自武帝滅朝鮮　使譯通於漢者三十許國　國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國【案今名邪馬惟音之訛也】倭は韓の東南、大海の中にあり、山㠀に依りて居を為す。凡そ百餘國。武帝の朝鮮を滅してより使譯漢に通ずる者三十許國、國、皆王をし丗丗統を傳う。其大倭王は邪馬臺國に居す」（後漢書東夷伝：古代史獺祭）。「漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし朝鮮半島に　楽浪郡など４郡をおいたのは、BC108年」とある。（年表：古代史獺祭）、この倭の大王は神武天皇ではない。
伝承によれば「それ、葦原中国はもとより荒れ果て、磐石草木に至り及びては、ことごとく（その性）悪しかる。然るに吾すでにくだきふせ、まつろはざるなし。」遂に因りて申された。「今この国をおさめるのはただ吾一人のみか、吾とともに天下をおさめるべきもの、これありや？」「夫（かの）大己貴命　與少彥名命（すくなびこなのみこと）　戮（あはす）力一心　經營（つくる）天下（あめのした）」、最初に天下の経営を行なったものは大己貴命と少彦名命とされる。また、「廼知　汝是吾之幸魂奇魂　今欲何處住耶　對曰　吾欲住於日本國之三諸山　故卽營宮彼處　使就而居　此大三輪之神也」のごとく海から浮き来たとされる大己貴神の幸魂奇魂が三諸山（三輪の大神（みわ）神社）に降り、渡来の魂あるいは海人の魂が大己貴神の国造りを支え、三輪で和魂として祭られる大物主神となり、これが、大和最古の宮とされたともあった。大三輪の神（みわ）の子は、甘茂の君（甘茂は加茂、賀茂、鴨、三輪は美和、神）である。三輪氏は大和盆地東南部（三輪）、賀茂氏は西南部（葛城）を本拠地とした。葛城では事代主神は鴨都味波八重事代主命、元来、代主（田の神）であった。
高皇産霊尊が彦火瓊瓊杵尊を葦原中国の主に立てむとして、天穗日命、その子大背飯三熊之大人またの名、武三熊之大人を送り、また、天稚彦をも送ったが、大己貴命に従って天に帰らなかった経緯もすでにみた。大己貴命が国譲りに応じた時、大物主神及び事代主神は天高市に八十萬神を集め、率いて天に昇り、心からの款に至るを述べ、高皇産霊尊はむすめ三穗津姫を大物主神の妻と爲し、宜しく八十萬神を領ゐ、永に皇孫の爲に護り奉るべしと送りかえしていた。また、大己貴神の腹心、猨田彦神が皇孫の道案内を行ない、その後伊勢に戻っている。
国引きによって出雲の国を造ったのは、八束水臣津野命である。この出雲に降りたのは素戔嗚尊であった。その子孫が大己貴命というのが書紀本文の伝へるところである。しかし、これには異伝が多かった。その名が大物主神　亦號國作大己貴命　亦曰葦原醜男　亦曰八千戈神　亦曰大國玉神　亦曰顯國玉神　その子が凡有一百八十一神ということで出雲のみではとらへきれない足跡を有している。その影響力は大和はもとより、北陸や関東、東北にも及んでいた。その下の層には素戔嗚尊の各地における伝承があり、その下層には「大日本豊秋津洲　次淡路洲　次伊豫二名洲　次筑紫洲　次億岐三子洲（おきのみつごのしま）　次佐度洲　次越洲　次吉備子洲　由此謂之大八洲國」という国生みに関する伊奘諾尊　伊奘冉尊の伝承がある。葦原中国を平定していた大己貴命が出雲も平定したもので、国譲りが行なはれた地が出雲国であったとする見解もあった。出雲国を譲るとは平定した葦原中国の顯事を譲ることであった。
大己貴命は島根の出雲で幽事を司ることになり、皇孫、彦火瓊瓊杵尊が日向に降りたため、大己貴命の統治の空白は大物主神に委ねられた。それ以降のことは全く触れられてこなかったが、大和に降りていた饒速日命を攻めることで、この問題に再び直面することになった。ところが、これには、驚くべき伝承がある。先代舊事本紀　巻第三　天神本紀（和漢籍の書棚；Alex's Webpage for History & Mythology ）によれば、饒速日命は、正哉吾勝々速日天押穂耳尊の御子で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と称される。天押穂耳尊は豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂之国に饒速日命を降ろす詔を天照太神からえて、饒速日命に天璽瑞寶十種を授け、三十二人の命を供なはせる。一行は、天磐船に乘り、河内国河上哮峯に天降り坐したといふ。その後、大倭国鳥見白庭山に遷り坐し、長髄彦の妹の御炊屋媛を娶り妃としている。妃は子を胎むのであるが、生まれる前に饒速日命が亡くなるといふ不運に見舞はれていた。瑞穂之国に不穏なものがあるために、天穂日命を派遣する。実は、ここからは天穂日命が大己貴神に媚び附くという彦火瓊瓊杵尊に関する書紀同様に、伝承が展開している。彦火瓊瓊杵尊よりはるかに壮麗な天降りの様であるが、これは書紀では何等触れられることはなかった。
磐余彦尊の時代に皇孫、彦火瓊瓊杵尊の時代の伝承である饒速日尊を相手に戦ふのであるから支離滅裂、頭の中がこんがらがる。この混乱を収束できないまま今は先に進む。どうやら、大己貴命の国譲りの後、出雲と称される、かつての大己貴命の国に饒速日尊を送り込んでいたやうである。しかし、何らかの理由でうまくゆかず、彦火瓊瓊杵尊を日向という地に降ろし、やり直さねばならない事態があったと想像しておこう。天神界にも舌が何枚もある。秘密も、隠し事も、奥の手も、全く一筋縄では手におへない。そして今や皇孫の子孫が、広義の出雲に攻め上ろうとしていることになる。
磐余彦尊と隼人、宇佐や吉備の勢力は、どうやら、最短コースで饒速日を攻める決断をしたやうだ。

戊午年春二月丁酉朔丁未　皇師遂東　舳艫相接　方到難波之碕　曾有奔潮太急　因以　名爲浪速國　亦曰浪花　今謂難波訛也　【訛　此云與許奈磨盧】

戊午年（つちのえうまのとし）の春二月（きさらぎ）丁酉（ひのとのとり）の朔（ついたち）丁未（ひのとのひつじのひ；11日）（BC663.02.11）に、皇師（みいくさ）、遂（つひ）に東（ひむがし）にゆく。舳（とも）艫（へ）相（あひ）接（つ）げり、方（まさ）に難波之碕（なにはのみさき）に到（いた）るときに、奔（はや）き潮（なみ）有りて太（はなは）だ急（はや）きに会ひぬ。因りて、名（なづ）けて浪速国（なみはやのくに）とす。亦、浪花（なみはな）と曰（い）ふ。今、難波（なには）と謂（い）ふは訛（よこなま）れるなり【訛　此をば與許奈磨盧（よこなまる）と云ふ】。

舳は広韻に「海中の大船なり」とあり、海上交通に用ゐる大船。艫は段注によると舟の大きさ一丈四方を呼ぶ単位名であるといふ、わが国の石（こく）に類する。また、船の頭（へさき）の意とするが、ともとする説もある（字統）。舳艫を”ともへ”と訓じている。大きな船団といふ印象を与へる表現である。注に、難波之碕は大阪市東区上町台地の北端から北区天満附近にわたる地域。古代の大阪湾は､大阪平野の奥深くまで入り込み､東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり､上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣の異なる地形であった、とある（大阪湾の歴史；大阪湾環境データ。国土交通省）。

日向（磐余彦尊と隼人）、菟狹、吉備の連合軍が皇師、その最前線が吉備であった。播磨あたりに駐屯できればよいが、それがかなわない勢力関係であったのか。いよいよ饒速日命の勢力圏に入る。難波之碕に至る。饒速日命が降りた河内国河上哮ヶ峯の位置については、交野市私市の天野川上流の磐船神社（岩所神社（磐船神社）と哮峯；神奈備）の地とされる。難波之碕あたりとする説もある。この碕は石山碕とされ、この石山にはかつては磐舟神社があったとされてきた。更に驚いたことに、ここは、元来、下照姫（顯国玉：大国主神のむすめ）を娶った天国玉の子、天稚彦が開拓した地ともされる。因縁の地である。（生国魂神社：神奈備）。この象徴的な地点を新たに、浪速、（浪花、難波）と皇師側は命名した。

三月丁卯朔丙子　遡流而上　徑至河内國草香邑青雲白肩之津

三月（やよひ）の丁卯（ひのとのう）の朔丙子（ひのえねのひ；10日）（BC663.03.10）に、遡流而上（かはよりさかのぼ）りて、徑（ただ）に河内国（かふちのくに）の草香邑（くさかのむら）の青雲（あをくも）の白肩之津（しらかたのつ）に至ります。

遡流とは今の淀川から天野川を溯ること、白肩之津とは白肩の港、白肩とは今の枚方である。

吉備までは一族を従へてきたであらうが（日向や菟狹や岡水門や埃宮に残留した者もあらう）、そこからは戦であり、勝利を収めるまでは同行は無理である。皇師の規模（船数や兵数）が不明であり、如何なる行軍をしたのか、素人にはさっぱり分らない。しかし、吉備をニ月に船で出てから、戦闘が全く無く、白肩之津に一ヶ月を要しているのは解せない。逆に、地形からすれば、難波之碕で皇師の船団を阻止しようともしない饒速日側といふのも妙なものである。饒速日側に海運力がなければ、大和を押さへる力はなかったはずである。などといふのは平成の世の人間の偏見か。
遡流而上であるが、「大阪の往古圖と云ふのがよくあるがこれは今日から約一千年程昔を追想して描いたものである。それを見ると海が湾入してその中には大小無数の三角洲が点在してゐる、その圖に依ると淀川はもう一定の水路を流れてゐるが淀川といふ名は未だない、「近江川南流」とか「山城近江流水」などと書いてゐる。その頃この流には岸といふものがなく水はたゞ低きについて廣漠たる草野の中にあふれ流れてゐた。
茫々として丈けを没する草原がつゞき澱みを作った沼や池のほとりには、いろいろな野獣や鳥類が棲んでゐた、上流から運んでくる土砂がやうやく固まりかけた土壌の山をもたげてゐた、こゝから見る下流は海潮がときどき河中に逆流して、見渡すかぎり一面に潮と水との入江をつくり無数の島地がさながら碁石を散したやうに浮んでゐた。難波江の昔、参議小野篁が「和田の原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ蛋のつり舟」とうたったやうに一面八十島の海湾であった、舩は川から沼へ、湖から海流へと深みを選んでは棹し、無数の水流を漕いて芦叢に立てられた澪標(みをつくし)に導かれつゝだんだんと山の方へ遡って行った。」（長柄雜記；戸田繁次氏著；長柄郷土誌）とある。
衢神、猨田彦大神が皇孫を筑紫の日向の高千穗槵觸の峯へ案内したといふ記述があった。猨田彦には目勝があり、目勝は眼力で相手を圧すること、行軍には、土地土地の神や霊とのやりとりが不可欠であった。また、「天皇の遠い行幸には、大衣二人、番上隼人四人、今来隼人十人で騎馬や歩行で供奉する。国の境界や山川道路の曲がり角で今来隼人が吠声を発する。（邪霊を威嚇し、邪霊を祓う）」といふ注もあった。隼人が猨田彦の役割を果たしていた。「生国魂神社の神社略記によれば神武天皇が難波津に到着時石山碕に生島、足島神を祀ったのが創祀であるとしている。生島神・足島神を八十島神という」（生国魂神社：神奈備）。生島とは島を生むこと、足は”ひたす””日足す”で養育すること、この一帯の八十島を生み育てている土地の神を祀り、この地を浪速と命名していた。これが、難波之碕における戦の第一歩であった。
白肩之津への船団はまさに、「川から沼へ、湖から海流へと深みを選んでは棹し、無数の水流を漕いて芦叢に立てられた澪標(みをつくし)に導かれつゝだんだんと山の方へ遡って行った」のであらう。白肩を目指したのは、天野川上流の磐船神社を望む位置、饒速日命が降りたとされる河内国河上哮ヶ峯をおさえてしまふことを意識したものであらう。岩船街道で奈良へ向かふこともできたが、結果的にはそうならなかった。
白肩で気になることは、事代主神　化爲八尋熊鰐　通三嶋溝檝姫　或云　玉櫛姫　而生兒姫蹈鞴五十鈴姫命　是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也と記述される三嶋である。この三嶋は溝咋一族の地であり、葛城の鴨族が進出してきた所、溝咋神社の置かれている茨木市五十鈴町あたりとされる（溝咋神社：神奈備）。淀川を隔て、枚方より3ｋｍ西に溝咋神社がある。事代主神が八尋熊鰐となって葛城川、木津川、淀川を経て三嶋に通っていたのであり、白肩にも当然立ち寄っていたであらう。白肩之津への上陸に際して戦いがなく、後にその地の姫を后にしているところをみれば、このあたりでは、何らかの理由で、皇師に内応するものが多かったのかもしれない。このことに一月を費やしたとも考へられる。

夏四月丙申朔甲辰　皇師勒兵　歩趣龍田　而其路狹嶮　人不得並行　乃還更欲東踰膽駒山　而入中洲　時長髓彥聞之曰　夫天神子等所以來者　必將奪我國　則盡起屬兵　徼之於孔舎衞坂　與之會戰　有流矢　中五瀬命肱脛　皇師不能進戰　

夏四月（うづき）の丙申（ひのえさる）の朔（ついたち）甲辰（きのえたつのひ；9日）（BC663.04.09）に、皇師（みいくさ）兵（つはもの）を勒（ととの）へて、歩（かち）にて竜田（たつた）に趣（おもぶ）く。而（しかう）して其の路（みち）狹（さ）く嶮（さが）しくして、人並（ひとな）みて行（ゆ）くことを得ず。乃（すなは）ち、還（かへ）りて更（さら）に東（ひむがしのかた）胆駒山（いこまのやま）を踰（こ）えて、中洲（うちつくに）に入らむと欲（おもほ）す。時に長髓彦（ながすねびこ）聞（き）きて曰（い）はく、「夫（そ）れ、天神（あまつかみ）の子等（みこたち）の来（き）ます所以（ゆゑ）は、必ず我（わ）が国（くに）を奪（うば）はむとならむ」といひて、則ち盡（ふつく）に属（したがす）へる兵（いくさ）を起（おこす）して、徼（さいぎ）りて、孔舎衞坂（くさゑのさか）にして、与（とも）会（あ）ひ戦ふ。流矢（いたやぐし）有りて、五瀬命（いつせのみこと）の肱脛（ひぢはぎ）に中（あた）れり。皇師、進（すす）み戦ふこと能（あた）はず。

勒は馬首にまとうて口にくわえさせる金具、転じて軍を整えることを「兵を勒す」といふ（字統）。趣は説文に「疾（すみ）やかなり」とあり趣と走は古くは通用の字（字統）。膽駒山は生駒山、名義抄に膽は”い”と訓じるとある。中洲は”うちつくに”で奈良盆地をさす。
河内は大和政権からみて淀川より内（大和側）を指す地域。河上哮峯（いかるがのみね）は淀川上流、白肩より天野川上流の峰。磐船神社があり、磐船地峡を越え、富雄川水系に入り南下すると鳥見の白庭山に至る（饒速日の来た道；弥生の興亡）。これを岩船街道ルートと仮称する。長髓彦がこの一帯を治めていた。生駒山を越えた孔舎衞坂の下の石切劔箭神社の祭神は饒速日尊と宇摩志摩治尊（長髄彦の妹の御炊屋媛との間の子）であり、元来は、長髓彦の勢力圏内にあった。
日下川の上流の生駒山には「太陽信仰の対象としての神体山として饒速日山（日下の聖蹟；神奈備）があり、そこには社殿もなかったが天照御魂神社の原型の祭りの庭であった。後に、饒速日命を祀る「上ノ社」がこの頂上に設けられた。これに対する東の「下の社」がこの登弥神社（現伊弉諾神社）、西の「下ノ社」が石切劔箭神社である。」（伊弉諾神社（長弓寺）；神奈備）ともある。登弥神社（現伊弉諾神社）の祭神は、伊弉諾尊、配祀　素戔嗚尊、大己貴尊であり、饒速日尊はこの系列を受け継ぐことを暗示している。
徼は、元来、外部から邪霊の入るのを防ぐ呪的儀礼、説文に「循（めぐ）るなり」とある。
髓は日本では、脛の意に用いるが、骨中の脂、骨髄、肉食の民はその味を知っていて美とする（字統）。長は髪の長いこと、首長。これでは何のことかわからない。長髓彦に関しては、ポリネシア語で、「徹底的に・打ち負かされた・高い身分の・男子（首長）」あるいは、「（自分の境遇に）非常に・満足していた・高い身分の・男子（首長）」（201H3長髓彦；夢間草廬）。意味がよく通る。アイヌ語で”石切、いしきり”は、i-si-kir 「長い・足」の意味になり、長髓彦が石切神社の陰の祭神という（石切神社祭神は長髓彦？；日本古代史とアイヌ語）。「長は蛇神を奉ずる南方系種族である。髄は脛ではなく鐘即ち銅鐸である。銅鐸祭祀の蛇神信仰種族が大和の地で強大な勢力を持っていた。」（伊弉諾神社（長弓寺）；神奈備）この名前の背後にも何層かの変遷がある。色んな研究が進んでおり、驚かさせられてばかりである。いづれにせよ文字のない時代の名称、文字で表記されることなど想像だにしなかった伝承時代の名称であろう。

難波から大和へ至る山越えを必要としない幹線は大和川沿い、国道２５号線、JR大和路線、奈良街道となる。当時はまだ、路の整備はなされていない。勒兵であり馬に乗る者、歩趣であるから走る者が川沿いに竜田を目指した。「信貴山の南端三室山を背後にし、大和川が狭い亀の瀬に向かう要所に龍田大社がある。この龍田大社は瀬戸内から大和への侵入の最後の拠点であるとも言える。」（龍田大社；神奈備）路が狹く嶮しくなり、迎撃されやすい地形であり、結局、これを回避する。事前に調査もせずに全軍で進軍した訳ではあるまい。強硬にこのルートからの奇襲を主張した者があったのかもしれない。白肩に上陸して以来、また、一月を費やしている。先代旧事本紀巻五　天孫本紀に、「磐余彦尊（いわれひこのみこと）が西宮を発ち自ら水軍を率いて東征を行われたとき往々に命令に背く者が蜂のごとく起こり、服従しなかった。」（先代旧事本紀　巻第五；『先代旧事本紀』の現代語訳（HISASHI））といふ記述がある。長髓彦側からの観測である。書紀では西宮の話しは出てこない。皇師側が混成軍となり、統一がとれていなかったのかもしれない。
元に還ったが、岩船街道ルートは選んでいない。元々迎撃準備が整っていたのであらう、今度は、孔舎衞坂より生駒山を越えるルートを選択する。生駒山の西側の饒速日の所縁の地を押さへており、一気に饒速日山を攻略し、鳥見に迫らうとしたのであらう。長髓彦は、知り尽くした地形であり、山を越え、孔舎衞坂において、手当り次第集めた兵を幾重にもずらりと並べ、上から順次、一斉に矢を射かけさせた。これが、五瀬命の肱と脛に当る。最初の戦闘は皇師側としては、手も足も出ぬものとなった。神霊のもつすぐれた力が、はげしい勢いであらわれる五瀬命が傷を負ふたことは、守護神同志の戦いでもある世界では不吉な前兆でもあった。

天皇憂之　乃運神策於冲衿曰　今我是日神子孫　而向日征虜　此逆天道也　不若　退還示弱　禮祭神祇　背負日神之威　隨影壓躡　如此　則曾不血刃　虜必自敗矣　僉曰　然　於是　令軍中曰　且停　勿須復進　乃引軍還　虜亦不敢逼　却至草香之津　植盾而爲雄誥焉　【雄誥　此云烏多鶏縻】因改號其津曰盾津　今云蓼津訛也　初孔舎衞之戰　有人隱於大樹　而得免難　仍指其樹曰　恩如母　時人因號其地　曰母木邑　今云飫悶廼奇訛也

天皇（すめらみこと）憂（うれ）へたまひて、乃（すなは）ち神策（あやしきはかりごと）を冲衿（みこころのうち）に運（さだ）めたまひて曰（のたま）はく、「今我（やつかれ）は是（これ）日神（ひのかみ）の子孫（うみのこ）にして、日（ひ）に向（むか）ひて虜（あた）を征（う）つは、此（これ）天道（あめのみち）に逆（さか）れり。若（し）かじ。退（しりぞき）き還（かへ）りて弱（よわ）きことを示して、神祇（あまつやしろくにつやしろ）を礼（ゐや）び祭（いは）ひて、背（そびら）に日神の威（みいきほひ）を負（お）ひたてまつりて、影（みかげ）の隨（まにま）に圧（おそ）ひ躡（ふ）みなむには、此の如くせば、曾（かつ）て刃（は）に血（ちぬ）らずして、虜（あた）必ず自（おの）づからに敗（やぶ）れなむ」とのたまふ。僉（みな）曰（まう）さく、「然（しか）なり」とまうす。是に、軍中（いくさに）に令（みことのり）して曰（のたま）はく、「且（しまし）は停（とどま）れ。復（また）な進（い）きそ」とのたまふ。乃ち軍（いくさ）を引（ひ）きて還りたまふ。虜（あた）亦（また）敢（あ）へて逼（せ）めまつらず。却（かへ）りて草香津（くさかのつ）に至（いた）りて、盾（たて）を植（た）てて雄誥（をたけび）したまふ。【雄誥　此をば烏多鶏縻（をたけび）と云ふ】。因りて改（あらた）めて其の津（つ）を号（なづ）けて盾津（たてつ）と曰（い）ふ。今蓼津（たでつ）と云へるは訛（よこなば）れるなり。初（はじ）め孔舎衞（くさゑ）の戰（たたかひ）に、人有りて大（おほ）きなる樹（き）に隱（かく）れて、難（わざはひ）に免（まぬか）るること得たり。仍（よ）りて其の樹を指（さ）して曰（い）はく、「恩（うつくしび）、母（おも）の如し」といふ。時人（ときのひと）、因りて其の地（ところ）を号（なづ）けて、母木邑（おものきのむら）と曰ふ。今、飫悶廼奇（おものき）と云ふは訛（よこなば）れるなり。

冲は氷を切るときの音、盅に通じむなしい意味となる（漢和中辞典）。衿は胸元で交わる”えり”、冲衿はむなしき胸のうち、”みこころのうち”と訓じている。運はめぐらすこと。”あた”敵、賊は正面からの敵対者。虜は捕虜のことであるが、”あた”と訓じている。捕虜にするどころか、その逆の状況に陥りかねない時に、相手を虜とするの如何なものか。また、天道とは、老子に「天道無親常與善人」あるいは史記、伯夷伝に「天道是耶非耶」にあるごとく、公平でえこひいきの無いことを意味している。日に向かって虜を征つのが”あめのみち”に逆行するというのは、天皇（すめらみこと）、清き光が太陽に向かいて戦うのが逆といふ意味であり、天道の義からはずれている。しかし、書紀ではこのことが重要であった。”よわ”、”やわ”の弱は、元来、儀礼用の弓であり、実戦用の弓のように弓勢がないことをさす（字訓）。日に向かい矢を射たために皇帥側の弓勢がそがれたと反省している。これを回復するには、神（天<あま>神の社）祇（土地<くに>神の社）を礼（ゐやまふ；うやまふ）祭（いはふ）し、この無礼を改め祭をし、日神の威、これを”みいきほひ”（”いきほひ”とは徳であった）と訓じているが、この威を背に戦ふなら、虜必ずや自ら敗れん。王沢を霑はすという基本使命、全軍を統べる戦争目標をうちたてる神策をめぐらした。

この戦闘の後に、草香之津へ還り、盾を植てて雄誥を爲し、盾津、蓼津と命名している。これより先には攻めさせないといふ意気が込められた。草香之津であるが場所に関して、頭が混乱する。竜田の戦いから退き還ったといふのは草香邑の白肩之津ではなささうである。孔舎衞坂の戦いで還った草香之津であらう。白肩之津から兵を勒へ、歩にて竜田に趣いた時、草香之津で一旦駐屯、船もこの津まで来ていたことにならうか。盾津は、石切劔箭神社の西2～3kmの方面である。ここまで潟面が広がっていたことともなる。「古代の頃､東方の生駒山麓に草香津､上町台地の付根に住吉津､上町台地の先端部に難波津があり､いずれも重要な港としての役割を果たしていた。
難波堀江が開鑿される前､すなわち弥生時代から古墳時代の前半頃には､瀬戸内海方面からやってきた船は天満砂州の北側を通って草香津に至っていた。
当時､天満砂州の先端の辺りには西北の千里山丘陵の末端から東南に向う吹田砂州が発達しており､それが狭い水路のようになっていた。そのため､干潮の際には草香津から難波之海に向う､かなり速い流れを生じた。この狭い水路・垂水の瀬戸はその後､川や波が運んできた泥や砂によって埋められ少しずつ浅くなり､北回りの航路が使えなくなった。
そこで五世紀ころ､天満砂州のほぼ中央部､上町台地を北に下りたところに東西方向に難波堀江を開削することになった。堀江が通じた結果､砂州東側の長柄から森の宮付近にあった船着場は､堀江と天満潟の接点付近(現在の地名では中央区高麗橋一丁目付近)と考えられている。
西からやってきた外国船の多くは､外港･江口にまず立ち寄ったのち､難波津に到着した。人々はここで上陸し､難波大道を南に進んで大津道や丹比(たじひ)道を大和に向うとか､小さい船に乗り換えて草香津に至り､あるいは旧淀川や旧大和川をさかのぼったと考えられる。日下雅義著｢平野は語る｣(大巧社)」（古代の河内平野と大和盆地：朝日百科「日本の歴史」2古代）
この戦で「人有りて大きなる樹に於て隱れて難を免がる」とある人は誰だろう。磐余彦尊その人であったかもしれない。母木邑の位置については大阪府枚岡市（東大阪市）豊浦町説、八尾市恩智説があるようだ。(オモノキ考；日本古代史とアイヌ語)。豊浦と云う地名、草香之津との関係からすれば枚岡神社の麓あたりの方が該当しやすい。（枚岡神社；神奈備）孔舎衞坂の戦とはこの坂のみにあらず、かなり広範囲の戦いであり、結局草香之津に追い落とされ背水の状況に陥ったのではあるまいか。「虜亦敢へて逼めず」で、長髓彦は深追いしなかった。いづれにせよ、盾を植てて雄誥を爲さねばならぬほど、手ひどい敗戦であったと思はれる。

背に日神之威を負いて戦ふとなれば、東から攻め込むことになる。これまでの記述からすれば、猨田彦神が皇孫の道案内を行ない、その後天鈿女命を連れだって伊勢に戻っていた。石凝姥が冶金工として矛と鏡を造る。造り奉る神（みかた）は日前神（鏡）、石凝姥が最初に造った鏡は少しうまくゆかず紀伊の国の日前神とした。”ひのくま”は日隈の義。うまく造った鏡は伊勢大神とした。とあった。また、一書に曰く、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、高皇産靈尊之女天萬𣑥幡千幡姫を娶り、妃となして兒を生む。天照國照彦火明命と號く、これ尾張連等遠祖なり。次天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵尊　また、一書に曰く、天忍穗根尊、高皇産靈尊の女子𣑥幡千千姫萬幡姫命、また高皇産靈尊の兒、火之戸幡姫の兒、千千姫命と云うを娶りて、兒、天火明命を生む。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の兒、天香山、これ尾張連等の遠祖なり。ともあった。天津彦火瓊瓊杵尊には兄、天照国照彦火明命がおり、その子孫が尾張にいたことになる。火明命は書紀本文では、天津彦彦火瓊瓊杵尊と鹿葦津姫の第三子で、尾張連等始祖としており、兄とは位置付けていない。注に、姓氏録、左京神別は尾張氏の本宗である尾張宿禰を「火明命廿世孫、阿曾禰連之後也」、宿禰と賜姓されなかった支流である尾張連を「火明命之男、天賀吾山命之後也」と区別し、山城・大和でも尾張連は、「天香山命之後也」とする。他に、河内の吹田連、和泉の綺連も天香山命の後とあった。草薙劒　此今在（ます）尾張國（をはりのくに）吾湯市村（あゆちのむら）　即熱田（あつた）祝部（はふり）所掌之神是也。といふ記述もあった。（味耜高彦根神が）大葉刈（亦の名、神戸剣）を抜き喪屋を斫り仆す。これすなはち落ちて山となる。今、美濃国の藍見川の上の喪山、これなり。ともあった。つまり、この場合、東といえば、伊勢、尾張を念頭に置くことになる。伊勢に関しては、鏡の神、巫女の地を連想させる。尾張に関しては、火と剣、武力を連想させる。火明命の子孫は、山城、大和に入ったもの、吹田、和泉に入ったもの、尾張に入ったものがあるやうだ。陸路で奈良盆地の東に行くこと、海路で行くこと、いづれにせよ途方も無い選択である。何故このようなことが可能と思へたのか？
先代旧事本紀巻五　天孫本紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は天道日女命（あめみちひめのみこと）を妃とし、天上に天香語山命（あめかごやまのみこと）を生む（先代旧事本紀　巻第五；『先代旧事本紀』の現代語訳（HISASHI））」。天香山の父が天火明命であり、天香語山命の父が饒速日尊であり、天火明命と饒速日尊が同じ立場にいることになる。書紀本文においては、火瓊瓊杵尊の兄の存在を認めていない。しかし、そういう伝承を否定はせず一書曰で記録にとどめている。微妙である。何故であらう？今は、まだ頭が混乱して筋が見えない。同書に「天香語山命（あまのかごやまのみこと）［天降った後の名は手栗彦命（たくりひこのみこと）。亦の名は高倉下命（たかくらじのみこと）］この命は、御祖の天孫の尊に従い、紀伊の国の熊野の邑に天下られた。」とある。
一書曰　伊奘冉尊　生火神時　被灼（やく）而神退去矣　故葬（はぶる）於紀伊國（きのくに）熊野（くまの）之有馬村（ありまのむら）焉。また、素戔嗚尊の子の五十猛神に関して初め、五十猛神が天降りる時、多くの樹の種を下ろすも韓地には植えず、ことごとく持ち帰り、筑紫から始めおよそ大八洲国の内、播き植えないところはなく、青い山となる。五十猛神を称え、有功之神となす。紀伊国にまします大神とはこれなり。とあった。紀伊国名草郡の津麻神戸・大屋・伊太祁曾（五十猛神のこと）、和歌山市伊太祁曾の伊太祁曾神社に祭られている。素戔嗚尊は、よく木種を分布し、紀伊国に渡し奉り、然る後、素戔嗚尊は熊成峯にまし、遂に根の国に入られた。といfu伝承もあった。手置帆負神（手で桙を背負う神の義か、注に名称不明とある）が紀国の忌部の遠祖とされ、紀伊國名草郡御木（みき）、麁香（あらか）のニ郷にありといfu（古語拾遺）。
これらの伝承からすれば、磐余彦尊以前に饒速日尊は大和に、火明命の子孫が尾張（山城、大和、吹田、和泉を含め）に達しているのであり、東征は磐余彦尊以前に、すでに、行なはれていたことが分る。先代旧事紀に記された天降者の群れを見れば、磐余彦尊は最後の最強の東征者とすらいえやう。
磐余彦尊は、生駒側からの侵攻は無理、と判断した。白肩から木津川に入り南下する方が早いが、このルートもとっていない。饒速日、長髓彦の勢力下であり、それどころでなかったのであらう。紀伊半島を回る海路は、火明命の子孫がすでに移動をしており、敵との遭遇や台風がなければ、日向からここまで来ているのであり、補給が可能であればさほど問題ではない。背後から奈良盆地に向かふことを決意したのは、日神之威を負ひて戦ふということだけではあるまい。紀伊半島には敵や無縁の族ばかりでなく、所縁のある族も結構いたことになる。それが味方となるか、敵となるかはこれからみてゆくことにしたい。陸路でゆくより、海路の方が分が良かった、とでも考へてみやう。しかし、手ひどい敗戦のなかで、吉備に戻って立て直すのではなく、あくまでも背後を突くことに乗り出した意志力はすざまじい。”いはれ”磐余では”いは””われ”の短縮形。”わる”破、割”はる”墾に連なり、磐を破る、割る、墾る尊である。

饒速日尊、長髓彦の側から戦況を見直してみやう。皇帥側が船舶において優勢であり、吹田や枚方、河内において皇帥側につくものがある。生駒山を砦として奈良盆地への侵入口を塞ぐしかあるまい。哮峯や饒速日山といふ聖地を攻略されれば一気に崩される恐れがあり、精鋭でこれに備へる。奈良街道や岩船街道ルートでは、地の利を活かして、山間の細い路や見通しの悪い所で奇襲攻撃をかけたり、高い所から物を落とし退路を断ち、はさみうちにしたり、皇帥側をほんろうさせたい。淀川上流は出雲系の強い所であり、木津川方面の備へは援軍が期待できる。皇帥側は混成軍で命令系統がしっかりしておらず、命令に背くものすらある。敗戦が続けば、見限る可能性は十分ある。
あせった皇帥側が、饒速日山を一気に落そうと孔舎衞坂に迫った時に、長髓彦は一斉に矢を射かけて潰してしまった。大きなる樹に於て隱れて一命をとりとめた人の恐怖はいかばかりであったらう。
しかし、長髓彦はこの時、深追いしなかった。攻撃をかけなかったことが吉であったのか凶であったのか？総崩れしたと勘違いした敵を深追いして、伏兵に奇襲を受け逆襲されることもある。そこまで危険を冒さずとも、吉備へ退却せざるを得まい、再度攻めてきても同じ結果を招くのみ、と油断をしたのであらうか？実は、長髓彦側の総攻撃をためらはせたものがあった。それは、盾を並べての雄叫び、天皇を守護して吠えるかの隼人の怒声、これに呼応する皇帥軍の雄叫びであった。

2004.11.19　　訂正及び以下追加　2018.09.05

古事記
神倭伊波禮毘古命は、倭（やまと）の伊波礼（いはれ；磐余）の地を平定して以降の名であらう。天の下を平定するには東、日に向かって東に移動せねばならないとし、その出発点を日向としたのだらうか。高千穂から東に行くには、まず海岸に出て、北上し宇沙を経由し、東上して阿岐、吉備に向かはねばならないことは分かっていた。笠沙からなら直接船出となる。兵士のみならず一族郎党が船団を組んで移動したと思はれる。
竺紫の岡田宮に逗留しており、北九州の宗像の海人と友好関係を築いたのであらう。半島と往来する船舶とその航海術を習得する必要があったのか？海流、潮流、季節風による吹送流、海水温や密度の相違から起る密度流、河川からの流入や風により起る傾斜流、海水の移動により起る補流などマスターすべきことは多い。海神も表面、中間、底と分担があり、海水の動きの相違を認識していた。
黒潮、関門や瀬戸内海の潮の干満、島々の間の潮流に精通した海人無くしては航行は不能となる。大量の人間や物資を移動させる陸路のない時代であり、東征の鍵は海運にあった。
速吸門は、日本書紀（紀）においては、豊予海峡としていたが、古事記（記）では吉備の高嶋宮から白肩津に至る潮流の激しい海域を想定している。槁根津日子（椎根津彦）の出身にも相違がでてくる。
岡田宮に一年、阿岐の多祁理宮に七年、吉備の高嶋宮に八年を費やしており、海人ネットワークを用ゐ、倭の情勢を探り、味方を募り、兵力を蓄へたことになる。生駒に至るまで戦闘の記述は無く、登美能那賀須泥毘の影響力は河内には及んでいなかったことにならうか。逆からすれば、皇孫側は浪速渡、白肩津方面に支持を得ていたことになる。
「出雲国造神賀詞」に、「倭大物主櫛𤭖玉命と称して大御和の神奈備に祭り、阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に祭り、事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に祭り、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に祭る」とあり、「紀」には、すでにみたやうに、事代主神は、「八尋熊鰐に化為りて、三嶋の溝樴姬、或は云はく、玉櫛姬といふに通ひたまふ」とあり、葛城川、木津川、淀川を経て三嶋に通っていたとされ、「国譲り」以降に皇孫に協力する勢力が、これらの地にあったことにもならう。また、先代旧事紀にみたごとく、皇孫側は混成軍とみえ統率がとれていなかったともされた。
「記」では白肩津で戦があった印象となる。今は、日下の蓼津としており、記ではこの位置関係がはっきりしない。大阪平野の変遷の状況に起因しており、河内湾I、河内湾II、河内潟、河内湖Iの段階が想定されている（東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究;(財)大阪市文化財協会）。ここで敗れたときに、今度は日を背にして戦う方針をとっており、伊勢方面から奈良盆地に至ることを想定していたのであらう。実際は途中で難破し、新宮・熊野方面から奈良盆地に向かふことになる。
伊勢は記紀にすれば、皇孫を案内した猿田毘古大神、猿女君の国であり、因縁が深い。伊賀国風土記によれば、伊賀には猿田彦神の女（むすめ）吾娥津媛命がおり、当初は伊賀は伊勢に属していたといふ（伊賀国風土記逸文注釈稿、平松茂樹）。伊勢国風土記逸文によれば、当時伊勢は伊勢都彦の国であり、倭姫世記によれば出雲神子、出雲健子命又櫛玉命といふとあり、出雲系とみられる。天御中主の22世孫の、天日別命により追はれ、大風の中波を立てて去り、神風伊勢国、常世波寄国と称されたとされる。伊勢を出て信濃国に住んだとも、武刺（武蔵）国造の祖となったともあり、天日別命が東征に際してこれをなしたとする（伊勢国風土記、国会図書館）。伊賀や伊勢には皇孫に近く猿田彦の子孫がおり、出雲系も皇孫とわかれば、国を譲るという風があったやうな印象を与へていやう。

古事記
神武天皇
1.東征
神倭伊波禮毘古命（かむやまといはれびこのみこと）【伊より下の五字、音を以てす】と、其の伊呂兄（いろせ；同母兄）五瀬命（いつせのみこと）【上の伊呂（いろ）の二字、音を以てす】と二柱、高千穗宮に坐（ま）して議（はか）りて、云（の）りたまひけらくく、「何地（いづこ）に坐（ま）さば、平けく天（あめ）の下（した）の政（まつりごと）を聞（き）こしめさむ。なほ東（ひむがし）に行かむ」とのりたまひて、すなはち日向（ひむか）より發（た）たして筑紫に幸行（い）でましき。故（かれ）、豊（とよ）国の宇沙（うさ）に到りましし時に、その土人（くにびと）、名は宇沙都比古（うさつひこ）・宇沙都比売（うさつひめ）【此の十字、音を以てす】の二人、足一騰宮（あしひとつあがりのみや）を作りて、大御饗（おほみあへ）献（たてまつ）りき。其地（そこ）より遷移（うつ）りまして、竺紫（つくし）の岡田宮（をかだのみや）に一年（ひととせ）坐（ま）しき。またその国より上（のぼ）り幸（い）でまして、阿岐（あき）国の多祁理宮（たけりのみや）に七年（ななとせ）坐しき【多より下の三字、音を以てす】。またその国より遷り上り幸（い）でまして、吉備（きび）の高嶋宮に八年（やとせ）坐しき。故、その国より上り幸でま）しし時、亀の甲（せ）に乗りて、釣（つり）をしつつ打ち羽擧（はぶ）き来る人、速吸門（はやしひのと）に遇（あ）ひき。　ここに喚（よ）び歸（よ）せて、「汝（な）は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕（あ）は国つ神ぞ」と答へ曰（まを）しき。また、「汝（な）は海道（うみつぢ）を知れりや」と問ひたまへば、「能（よ）く知れり」と答へ曰（まを）しき。また、「從（みもと）に仕（つか）へ奉（まつ）らむや」と問ひたまへば、「仕え奉らむ」と答へ曰（まを）しき。故、ここに槁機（さを）を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち名を賜ひて、槁根津日子（さをねつひこ）と号（なづ）けたまひき【こは倭国造等の祖】。
故（かれ）、その国より上り行（い）でましし時、浪速（なみはや）の渡（わたり）を経（へ）て青雲の白肩津（しらかたのつ）に泊（は）てたまひき。この時に登美能那賀須泥毘（とみのながすねびこ）【登より下の九字、音を以てす】、軍（いくさ）を興（おこ）して待ち向（むか）へてて戦ひき。ここに御船に入れたる楯（たて）を取りて下（お）り立ちたまひき。故、其地（そこ）を号（なづ）けて楯津（たてつ）と謂（い）ひき。今者（いま）に日下（くさか）の蓼津（たでつ）と云ふ。ここに登美毘古（とみびこ）と戦ひたまひし時、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串（いたやぐし）を負ひたまひき。　故ここに詔（の）りたまひしく、「吾（あ）は日神（ひのかみ）の御子として、日に向ひて戦ふこと良（よ）からず。故、賎（いや）しき奴（やつこ）が痛手（いたで）を負ひぬ。今者（いま）より行き迴（めぐ）りて、背（そびら）に日を負ひて撃たむ」と期（ちぎ）りたまひて、南の方（かた）より迴（めぐ）り幸（い）でましし時、血沼海（ちぬのうみ）に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。故、血沼海と謂ふなり。其地（そこ）より迴り幸でまして、紀国（きのくに）の男（を）の水門（みなと）に到りて詔（の）りたまひしく、「賎しき奴が手を負ひてや死なむ」と、男建（おたけ）びして崩（かむあが）りましき。故、その水門（みなと）を号けて男の水門と謂ふ。陵（みはか）はすなはち紀国の竃山（かまやま）にあり。

古語拾遺
広成は東征の功労者を日臣命（大伴氏遠祖）、饒速日命（物部氏遠祖）、椎根津彦（大和氏遠祖）、八咫烏（賀茂県主遠祖）とし、日臣命の元戎（大軍）の督将（将軍）としての働き、饒速日命の官軍に帰順した忠誠、椎根津彦の皇舟の倭への迎引、八咫烏の宸駕（御幸）の菟田への導を挙げた。彼は、東征の軍事的な経緯よりは、橿原において行はれた祭祀の形に関心があった。

神武天皇の東征
神武天皇（じんむのすめらみこと）東（ひむがし）に征（ゆ）きたまふ年に逮（およ）び、大伴氏（おほともうぢ）が遠祖（とほつおや）日臣命（ひのおみのみこと）、元戎（おほつはもの）に督将（いくさのきみ）として、兇渠（あたども）を剪（き）り除（はら）ひき。命（きみ）を佐（多数）けし勲（いさをし）、比肩（なら）ぶもの有ること無し。物部氏（もののべうぢ）が遠祖饒速日命（にぎはやひのみこと）、虜（あた）を殺し衆（もろひと）を帥（ゐ）て、官軍（みいくさ）に帰順（まつろ）ふ。忠誠（ただ）しき効（まこと）、殊（こと）に褒寵（みめぐみ）を蒙（かがふ）る。大和氏（おほやまとうぢ）が遠祖椎根津彦（しひねづひこ）は、皇舟（みふね）を迎引（みちび）きまつりて績（いたはり）を香山（かぐやま）の巓（いただき）に表（あらは）す。賀茂県主（かものあがたぬし）が遠祖八咫烏（やたがらす）は、宸駕（みゆき）を導（みちび）き奉（まつ）りて、瑞（みづ）を菟田（うだ）の徑（みち）に顯（あらは）す。妖氣（わざはひ）既に晴れて、復（また）風塵（さわぎ）無し。都を橿原（かしはら）に建て、帝宅（おほみや）を経営（つく）る