�~日本磐余彦天皇　　�~武天皇 戊午年冬十月（BC663.10） 戊午年冬十有一月（BC663.11.07）　≫≫ 戊午年冬十有ニ月（BC663.12.04）　≫≫ 己末年春二月（BC662.2.20）　≫≫ .	事績一覧　∋ 古事記 　≫≫ 　神武天皇　東征　つづき 　所見1 、所見2、所見3
(岩波文庫　日本書紀　坂本太郎･家永三郎･井上光禎･大野晋　校注　を読む。) 本文に使用した漢字テキストについては古代史獺祭からダウンロードさせていただいている。 �~日本磐余彦天皇　　�~武天皇 冬十月癸巳朔天皇嘗其嚴瓮之粮　勒兵而出　先撃八十梟帥於國見丘　破斬之　是役也　天皇志存必克　乃爲御謠之曰 　伽牟伽筮能（かむかぜの）　伊齊能于瀰能（いせのうみの）　於費異之珥夜（おほいしにや）　異波臂茂等倍屡（いはひもとほる）　之多儴瀰能（しただみの）　之多儴瀰能（しただみの）　阿誤豫（あごよ）　阿誤豫（あごよ）　之多太瀰能（しただみの）　異波比茂等倍離（いはひもとほり）　于智弖之夜莽務（うちてしやまむ）　于智弖之夜莽務（うちてしやまむ） 謠意　以大石喩其國見丘也　 冬（ふゆ）十月（かむなづき）の癸巳（みづのとのみ）朔（ついたちのひ）（BC663.10）に、天皇（すめらみこと）、其の厳瓮（いつへ）の粮（おもの）を嘗（たてまつ）りたまひ、兵（いくさ）を勒（ととの）へて出でたまふ。先（ま）づ八十梟帥（やそたける）を国見丘（くにみのをか）に撃ちて、破り斬りつ。是の役（えだち）に、天皇志（すめらみことのみこころざし）必ず克なむといふことを存（たも）ちたまへり。乃ち御謠（みうたよみ）して曰（のたま）はく。 　神風（かむかぜ）の　伊勢（いせ）の海（うみ）の　大石（おほいし）にや　い這（は）ひ廻（もとほ）る　細螺（しただみ）の　細螺（しただみ）の　吾子（あご）よ　吾子（あご）よ　細螺（しただみ）の　い這（は）ひ廻（もとほ）り　撃（う）ちてし止（や）まむ　撃（う）ちてし止（や）まむ 謠（うた）の意（こころ）は、大きなる石を以て其の国見丘に喩（たと）ふ。　 粮は糧、量は穀量をはかる嚢、それによって一定量をはかること、糧は説文に「穀なり」とある。この厳瓮には穀物が供へられていたことになる。嘗は神が嘗める、神嘗、新嘗が原義（字統）、”たてまつる”と訓じ、献上した表現にしているが、磐余彦を天皇と表現し天皇が嘗めるが漢文解釈とならう。 国見丘は守道から正面の経ケ塚山（889ｍ）音羽山（851ｍ）であり、宇陀川を渡り谷間の急な坂を攻め登るのであるから、上から一斉に矢を射掛けられる危険があった。孔舎衞坂の二の舞である。しかし、今回は天神地祇の加護を得て事態は異なった。それが謠にされている。”えだち”は戦争や大きな土木工事に使役されること。高皇産霊尊を中心とする天神地祇に使役される磐余彦の兵とならうか。 この謠の「之多儴瀰（しただみ）、之多太瀰」を細螺、キシャゴ（貝の種類）の古名で皇帥の兵と解するのが通説であるが、八十梟帥側の下民と解する説がある。「ほつまつたゑ」では、神風(かんかぜ)の　伊勢の海なる　古(いにしえ)の　八重這い求む 　細螺(しただみ)の　吾子よ、よ吾子よ　細螺の　い這ひ求めり　討ちてし止まん　と　古の　八重這い求む の句が入っており、神風の伊勢の海にお住まひの天照大神に対して、昔、チョロチョロ這い廻るシタダミの ように反抗し、遂に下民に落とされた者がいたが、これと同類の者が、今また現われ、そこにウロウロしている。わが兵士よ。さあ、これを撃ちに撃とうではないか。の義とある。この後に、この歌を　諸(もろ)が歌へば 仇が告ぐ　しばし考ふ 細螺(しただみ)の　吾子よ、吾子よ　ニギハヤヒ　サスラ男(を)寄すと　雄叫びて　また一言がも　天(あめ)からと　戦（いくさ）を引けば　味方笑む （皇軍の兵士たちが、この歌を唱うのを敵兵が聞いて、これを彼等の首将ニギハヤに告ぐと、しばし考えていたニギハヤヒは、「自分のことを神代の反逆者ソサノヲになぞらえている」と叫び、「気づいてみれば、誠にその通りだから、これに対し一言も返す言葉 がない」と皇軍への反抗を悔い改めて戦を引いたので、味方もホッとして歓声をあげた。）の句が続き、このことが明らかとある（討ちてし止まんの本意；秀真政傳紀）。 神風は伊勢にかかる枕詞、於費異之（おほいし）を大石とするのが通説であるが、生ひ石（石が成長するという信仰による）の意と注されている。風といへば、暴風で伊勢に向かったと思われる皇舟が難破し、稻飯命と三毛入野命を失った。孔舎衞坂では太陽を背にした長髄彦の兵の矢が風にも乗って飛来したのであらう、五瀬命が深手を負った。伊勢の海の大石は、ここでは、国見丘のことであり、そこに神風が吹いている。この風は天神地祇の加護を得ており、今回は、皇帥に敵対するとは思はれない。 天神地祇を敬ひ祭った厳瓮の粮を磐余彦は嘗め、兵を勒へて出陣する。国見丘の八十梟帥を撃ちこれを破り、斬る。皇帥は天神に使役される兵であり、磐余彦の心には必ずや克つといふ気持ちが宿っていた。 国見丘には神風が吹いている。吾子よ！大石にへばりつく細螺のごとく国見丘を這い廻り、飛来する矢をまともに受けるな。風も味方し矢の勢いもそがれ、方向もそれるであらう。あちこち、そこかしこから腹ばい、よじ登り、剣や矛で撃ちかかり、撃ちまくれ！ 旣而餘黨猶繁　其情難測　乃顧勅道臣命　汝宜帥大來目部　作大室於忍坂邑　盛設宴饗　誘虜而取之　道臣命　於是　奉密旨　掘窨於忍坂　而選我猛卒　與虜雜居　陰期之曰　酒酣之後　吾則起歌　汝等聞吾歌聲　則一時刺虜　已而坐定酒行　虜不知我之有陰謀　任情徑醉　時道臣命　乃起而歌之曰 　 　於佐箇廼（おさかの）　於朋務露夜珥（おほむろやに）　比苔瑳破而（ひとさはに）　異離烏利苔毛（いりをりとも）　比苔瑳破而（ひとさはに）　枳伊離烏利苔毛（きいりをりとも）　瀰都瀰都志（みつみつし）　倶梅能固邏餓（くめのこらが）　勾騖都々伊（くぶつつい）　異志都々伊毛智（いしつついもち）　于智弖之夜莽務（うちてしやまむ）　 既にして、余（あまり）の党（ともがら）猶繁（おほ）くして、其の情（こころ）測り難し。乃ち顧（ひそか）に道臣命（みちのおみのみこと）に勅（みことのり）すらく、「汝（いまし）、大来目部（おほくめら）を帥（ひき）ゐて、大室（おほむろ）を忍坂邑（おしさかのむら）に作りて、盛（さかり）に宴饗（とよのあかり）を設（ま）けて、虜（あた）を誘（をこつ）りて取れ」とのたまふ。道臣命、是に、密（しのび）の旨（みこと）を奉（うけたまは）りて、窨（むろ）を忍坂に掘りて、我が猛（たけ）き卒（いくさ）を選びて、虜と雜（ま）ぜ居（す）う。陰（ひそか）に期（ちぎ）りて曰（い）はく、「酒（さけ）酣（たけなは）の後に、吾（われ）は起（た）ちて歌はむ。汝等（なむたち）、吾（わ）が歌の声（こゑ）を聞きて、則ち一時（もろとも）に虜（あた）を刺せ」といふ。已（すで）にして坐定（ゐしづま）りて酒行（さけも）る。虜、我が陰謀有（しのびのはかりごとあ）ることを知らずして、情（こころ）の任（まま）に径（ほしきまま）に醉（ゑ）ひぬ。時に、道臣命、乃ち起ちて、歌（うたよみ）して曰（い）はく。 忍坂（おさか）の　大室屋（おほむろや）に　人多（ひとさは）に　入（い）り居（を）りとも　人多（ひとさは）に　来入（きい）り居（を）りとも　みつみつし　来目（くめ）の子等（こら）が　頭椎（くぶつつ）い　石椎（いしつつ）い持ち　撃（う）ちてし止（や）まむ 既而は終わったがしかしの義。情を”こころ”と訓じている、其情とは天神の情となる。顧を”ひそか”と訓じているが、元来は鳥占いを示す字、神の啓示するところを視て反省する意をもつ(字統）。忍坂邑（マピオン編修地図）は敵の要衝である。こんな所に大室を作ることも、宴饗を開くことも不可能である。誘を”をこつる”と訓じている、横になっているものを起こして釣る意、従って、さそう意、転じて、騙す意と注される。とんでもない勅に道臣命も困ったことであろう。密は宓山となっているが、元は、宓火からなり、宓は安寧を求むる儀礼、密はそれを火で清めるいっそう厳重な儀礼で、親密なもののために秘密のうちに行われた（字統）もの。旨は祝禱して祈り神を降す字で、祝禱の器である曰（えつ）の上に、彷彿として霊の詣（いた）る意（字統）。窨は不明、”むろ”と訓じている、土を掘り下げて柱をたて屋根を置く形式の家（字訓）。闇とは神の「音なひ」があわはれること、それとなく、人知れずあらわれるものであるから、幽暗の意が生まれた（字統）。”すう”居は、ふさわしい場所に、ものを安定した状態で置くこと、また人を適当な地位につかせること。 酣は説文に「酒のみて楽しむなり」とある。韓非子の「酣戦の時」のようにたけなわ状態の意がある（字統）。道臣命と大来目は厳呪詛した厳瓮にいれた酒をどう持ちこんだのであらう。疑いを抱かれれば、生きて帰ることはできない。何も語られていない、書けないほど陰険な手段が用いられたのやもしれない。 椎は説文に「撃つ所以なり」とあって槌の意（字統）。頭椎いは、頭槌の太刀、柄頭が槌のような塊状のものとされるが未詳、石椎いは柄頭が石でできている剣、あるいは石剣（三省堂古語辞典）とある。”みつみつし”の”みつ”は御稜威と注される。みなぎる、生命力に満ちているともいえよう。 国見丘の八十梟帥を破ったものの、残党は猶満ち勢力を保っている。勝ったとはいへ、局地的なもので形勢は変はらない。天神の意を測りかねた。神意を顧み、今度は、道臣命と大来目で試めさんと道臣命に勅す。大来目部を帥ゐて、忍坂邑に大室を作り、盛に宴饗を設け、虜を誘りて之を取れと。密かにかける厳呪詛であり、道臣命にのみこのことが告げられた。敵の中に大室を作ることは不可能であり、敵の大室を利用するしかあるまい。道臣命は敵状を探り、酒を持ち込むことができる宴の機会を探り、てだれのものを夜陰にまぎれて忍び込ませる方法を工夫したのであらう。忍坂といふはこの故事によるものかもしれない。”むろ”窨であるが、闇から連想するに、天神の導きにて道臣命に示された密かな穴であらうか。うまくばらけて掘りそこに卒を隠し、合図の歌で一斉に撃ちかかれと耳打ちをしておいた。道臣命と大来目は酒をもってどう取り入ったのか、宴のなかにどっかとすわり、酒を注いでいた。下手にしゃべれば素性がばれる、ひたすら酒を飲み酒をすすめたのであらうか。陰謀が隠されているとも気取られず、酔いがまわった頃に、道臣命は立ちあがって歌った。 　忍坂の　大室屋に　どんなに敵が沢山いようと　みつみつし　来目の子等が　頭椎い　石椎い持ち　撃ちてし止まむ 時我卒聞歌　倶拔其頭椎劒　一時殺虜　々無復噍類者 　皇軍大悦　仰天而咲　因歌之曰 　伊莽波豫（いまはよ）　伊莽波豫（いまはよ）　阿々時夜塢（ああしやを）　伊莽儴而毛（いまだにも）　阿誤豫（あごよ）　伊莽儴而毛（いまだにも）　阿誤豫（あごよ）　 今來目部歌而後大哂　是其緣也　又歌之曰 　愛瀰詩烏（えみしを）　毘儴利（ひだり）　毛々那比苔（ももなひと）　比苔破易陪廼毛（ひとはいへども）　多牟伽毘毛勢儒（たむかひもせず）　 此皆承密旨而歌之　非敢自專者也　時天皇曰　戰勝而無驕者　良將之行也　今魁賊已滅　而同惡者　匈々十數群　其情不可知　如何久居一處　無以制變　乃徙營於別處 時に我が卒（いくさ）、歌を聞きて、倶（とも）に其の頭椎剣（くぶつちのつるぎ）を抜きて、一時（もろとも）に虜を殺しつ。虜、復（また）噍類者（のこるもの）無し。皇軍（みいくさ）、大（おほ）きに悦（よろこ）びて、天（あめ）を仰（あふ）ぎて咲（わら）ふ。因りて歌（うたよみ）して曰（い）はく、 　今（いま）はよ　今（いま）はよ　ああしやを　今（いま）だにも　吾子（あご）よ　今（いま）だにも　吾子（あご）よ 今、来目部（くめら）が歌ひて後（のち）に大きに哂（わら）ふは、是れ其の縁（ことのもと）なり。又、之を歌して曰はく。 　夷（えみし）を　一人（ひだり）　百（もも）な人（ひと）　人（ひと）は云（い）へども　抵抗（たむかひ）もせず　 此（これ）皆（みな）、密旨（しのびのみこと）を承（う）けて歌ふ。敢（あ）へて自（みづか）ら專（たくめ）なるに非ず。時に天皇（すめらみこと）の曰（のたま）はく、「戦（たたかひ）勝ちて驕（おご）ること無きは、良將（いくさのきみ）の行（しわざ）なり。今、魁（おほき）なる賊（あた）已に滅びて、同じく惡しくありし者、匈々（いひおる）りつつ十數群（とたむらばかり）あり。其の情（こころ）知るべからず。如何（いかに）ぞ久（ひさ）しく一処（ひとところ）に居（ゐ）て、以て制変（はかりごと）すること無けむ」とのたまふ。乃ち徙（す）てて別処（ことどころ）に営（いほり）す。 噍類者の噍はかむこと、物を食べること、注に、噍類者は生き残る者、説文に「齧也」、漢書、高帝紀に「襄城無噍類」、顔師古注に「無復有活而噍食者也」とある。”ああ”は深い驚きや感動のとき発する声、”を”は人に答えて承諾や肯定の意をあらわす感動詞（字訓）。”し”は”す”の連用形で「なしとげる、しおおせる」、”や”は動詞の連用形についてかるい敬意を表す、助動詞「やる」の命令形「やれ」の転（三省堂古語辞典）と解釈。”だに”は反対の関係に立つ意の接続詞（三省堂古語辞典）。我が卒を吾子と呼んでいる。磐余彦は国見丘の戦いから吾子という言葉を使い出した。混成軍を一体化させる呼称である。咲、笑は同意で喜んで笑う、哂は、ほおえむ、せせらわらう（角川漢和中辞典）。 兄磯城の兵を夷としているが、磐余彦の兵が夷にふさわしい。戦う前には兄磯城の兵一人は磐余彦の兵百人に相当すると評されていた。伏せ潜んでいた来目の猛者は心凍る思いで隠れていた。それ故に、「天を仰ぎて咲ふ」ほどの（呆然自失する）悦びがあった。 ”たくめ”專は、ひたすらにことを為す、また自分勝手にする意の副詞、書紀の古訓として、その傍訓の語にのみ見え、書紀特有の語（字訓）。注に、後漢書、王堂伝に「捜才礼士　不苟自專」、史記、項羽紀に「戦勝而将驕卒情者敗」とある。魁なるとは首なるで、八十梟帥をさす。注に、玉篇に「匈、匈々、沸擬声」、漢書、高帝紀に「天下匈々、労苦数歳」の顔師古注に「喧擾之意」とあり「おそれさわいで安じないさま」とある。 制変は、注に、後漢書、袁紹伝に「明主図危以制変　忠臣慮難以立権」、変事を制しとどめること、とある。戦況を見れば、国見丘で八十梟帥を斬り、平成の世なら米軍の特殊部隊のようなもので、忍坂の大室の兵を殲滅したのであるが主力は保たれ、墨坂の軍は健在であり、兄磯城軍の屋台骨を揺るがしたものではない。兵が動揺しているやうであるが、どれほどのものか、其の情知る可からずといふ状況であった。 命を危険にさらして、敵中に息を殺して伏せ潜んでいた来目の猛者等が酔った敵兵に一斉に切りかかり、皆殺しにした。国見丘での勝利とは比較にならぬ大勝となった。陰謀にかけ惨殺した後ろめたさなど無縁。天神はわれらを役せり、天を仰いで声をあげて笑った。 　今度こそ　今度こそは　してやったり　これまでかほどの勝はなかった　天神の卒なればこそぞ　吾子よ この歌の後に哂ふといふのは、この故事による。来目舞の一つとなった（文化デジタルライブラリー） 。また、磐余彦の兵が百人かかってやっと太刀打ちができるとされていた敵兵は何等の抵抗もしなかったとさへ歌っている。それは個々の卒が勝手に歌ったのではなく、密旨をうけてのことであった。厳呪詛は絶大であった。しかし、磐余彦は戦況を冷静にみていた。忍坂周辺には、兄磯城側の軍十数群が配備されたままで、その兵の情を把握はできていない。同じところに陣を設けていて維持できる状況ではない。慎重に陣を移動して対応した。 十有一月癸亥朔己巳　皇師大擧　將攻磯城彥　先遣使者　徴兄磯城　兄磯城不承命　更遣頭八咫烏召之　時烏到其營而鳴之曰　天�~子召汝　怡奘過　怡奘過【過音倭】　兄磯城忿之曰　聞天壓�~至　而吾爲慨憤時　奈何烏鳥若此惡鳴耶【壓　此云飫蒭】乃彎弓射之　烏卽去　次到弟磯城宅　而鳴之曰　天�~子召汝　怡奘過　怡奘過　時弟磯城惵然改容曰　臣聞天壓�~至　旦夕畏懼　善乎烏　汝鳴之若此者歟　即作葉盤八枚　盛食饗之　【葉盤、此毘羅耐】 十有一月（しもつき）の癸亥（みづのとのゐ）の朔（ついたち）己巳（つちのとのみのひ）(BC663.11.07)に、皇帥（みいくさ）大きに擧（こぞ）りて、磯城彦（しきひこ）を攻（せ）めむとす。先（ま）づ使者（つかひ）を遣（つかは）して、兄磯城（えしき）を徴（め）さしむ。兄磯城、命（おほみこと）を承（う）けず。更に、頭八咫烏（やたのからす）を遣はして召（め）す。時に、烏（からす）、其の営（いほり）に到りて鳴きて曰（い）はく、「天神（あまつかみ）の子（みこ）、汝（いまし）を召す。率（いざ）わ、　率（いざ）わ」といふ。【過の音（こゑ）は倭（わ）】　兄磯城忿（いか）りて曰（い）はく、「天壓神（あめおすのかみ）至（いま）しつと聞きて、吾（あ）が慨憤（ねた）みつつある時に、奈何（いかに）ぞ烏鳥（からす）の此若（かく）惡（あ）しく鳴く」といひて、【壓、此をば飫蒭（おす）と云ふ】乃ち弓を彎（ひきまかな）ひて射る。烏即ち避去（たちさる）りぬ。次（つぎ）て弟磯城（おとしき）が宅（いへ）に到りて、鳴きて曰はく、「天神の子（みこ）、汝を召す。率（いざ）わ、　率（いざ）わ」といふ。時に弟磯城、惵然（お）ぢて、改容（かしこま）りて曰はく、「臣（やつこ）、天圧神至りますと聞きて、旦夕（あしたゆうべ）に畏（お）ぢ懼（かしこま）る。善きかな、烏。汝（い）が此若（かく）鳴く」といひて、即ち葉盤（ひらで）八枚（やつ）を作（な）して、食（くらひもの）を盛（も）りて饗（あ）ふ。【葉盤、此をば毘羅耐（ひらで）と云ふ】 ”こぞる”擧は、すべてのものが、その力を合わせて行なうこと（字訓）。使者を派遣し交渉を行なっている。頭八咫烏とは神魂命孫鴨建津之身命、鴨県主・賀茂県主の祖であった。営は軍営のこと。”いざ”は誘ふことば、”わ”は感動詞さあさあ（三省堂古語辞典）。 天壓神は注に、通証に「有威徳之称也」、左氏伝曰「穆公夢天圧己」とある。中国では旧暦の大晦日に「夕飯を食べ終ると、年長者が子供たちに「紅包・圧歳銭（お年玉）」をあげます。紅包は親から子へ、既婚者から未婚者に贈られるものでした。今では旧正月前のボーナスを「紅包」と呼んでいます。紅色は力、愉快、楽しい運を象徴する中国人の大好きな色です。「圧」は邪悪な神を押しつぶし、「歳」は「崇」と同じ発音のため、圧歳銭をもらった子供は平安に一年を過ごすと言われました。大晦日の夜は、一睡もせず夜を明かす習慣があります。深夜零時になると家の中にいた悪鬼や妖魔、悪霊を一気に退散させて、歳神様を呼びこもうという意味を込め、爆竹が朝まで鳴り響きます。これは残酷で獰猛な人を食う「年」という動物を撃退するためで、明かりをつけたまま一家全員起きています。」（春節；中国まるごと百科辞典）という話があり、天圧神は邪悪な神を押しつぶす神と解しておきたい。 ”いかる”忿は、心のうちから、はげしく腹立てる、はげしい息づかいをいう（字訓）。慨は、説文に「忼慨（こうがい）するなり」と訓じ「壮士志を得ざるなり」と慷慨の意。憤は中より外にあらわれること（字統）。”ねたむ”は音（ね）痛（いた）むの意、起源的には相手などの評判が高いのを、うるさく思う意と注される。磯城という聖地を守護する磯城彦を惡神として圧する神からの使者といふ。惡ふざけにも程がある、心の中から慨が噴きだし、彎弓する。彎は弓を持して矢をつがへること。射は、古くは、祓邪の儀礼（字統）。 惵は、あやぶみおそれること。慄は別字で身震いすること（三省堂古語辞典）。改は攺、巳は蛇形で蠱虫を示し、これを殴って鬼魅邪悪を祓う呪儀、改はこれらの犠牲を殴つことによって、自己が被ろうとしている禍殃を他に移し変更することを求めるもの。容は元来が祝禱に対して神気が彷彿としてあらわれる意、よろこぶ、すがたと訓じる（字統）。改容を”かしこまる”、自然の霊威に対し畏怖的な感情を感じること（字訓）、としている。 葉盤”ひらで”は平らな皿と注される。烏であるので、大きな木の葉を皿かはりに使ったのであらう。 十月から一月を経て、総攻撃を迎へた。敵の情を探り続け、一方、天圧神到来との噂をばらまいた。何と天香山の土で天神地祇を祭ったさうな。高皇産霊尊が磐余彦尊に降り、吉野の水神も丹生の神も味方しているらしい。饒速日尊より強力な尊である・・・。頭八咫烏がその先頭にたったのであらう。兄磯城側を心理的に揺さぶり、離反や内通の工作を行なった。不穏な空気が生まれ、交渉にもちこむことができた。兄猾及弟猾を徴したごとく、磯城彦（兄磯城と弟磯城）を徴せむとしたが、さすが、兄磯城は、立場が逆であらうと応じない。烏（からす）が軍営にきて鳴いたといふ。「天神の子、汝召す、いざ　ささあ。　いざ　ささあ」とばかりに。最近、天圧神到来とふれまわる輩に業を煮やしていた兄磯城は、おぞましく、腹立て、弓を構へ、逆に祓邪して、追ひ返した。 ところが、厳呪詛、天圧神到来の噂は、弟磯城には利いていた。書紀の世界ではいつも兄は不運、弟が時流をつかむ。弟磯城は、兄磯城と異なり、饒速日尊、とりわけ長髓彦に疑問を抱いていたのかもしれない。また、兄猾の最期、獲罪於天事無所辭、を深刻にとらへ、懼れていた。弟猾に接触したいとさえ思っていたかもしれない。そこへ、烏（からす）が来て同じことを鳴いた。渡りに船と、葉盤八枚に食を盛り、烏をもてなした。 因以隨烏　詣到而吿之曰　吾兄々磯城　聞天�~子來　則聚八十梟帥　具兵甲　將與決戦　可早圖之　天皇乃曾諸將　問之曰　今兄磯城　果有逆賊之意　召亦不來　爲之奈何　諸將曰　兄磯城黠賊也　宜先遣弟磯城曉喩之　幷説兄倉下　弟倉下　如遂不歸順　然後擧兵臨之　亦未晩也【倉下　此云衢羅餌】　乃使弟磯城開示利害　而兄磯城等　猶守愚謀　不肯承伏　 因り以て烏の隨（まま）に、詣到（まういた）りて之を告（まう）して曰（まう）さく、「吾（やつこ）が兄（このかみ）兄磯城（えしき）、天神（あまつかみ）の子（みこ）来（い）でますと聞（うけたまは）りて、則ち、八十梟帥（やそたける）を聚（あつ）めて、兵甲（つはもの）を具（そな）へて、与（とも）に決戦（たたか）はむとす。早（すみやか）に図（たばか）りたまふべし」とまうす。天皇（すめらみこと）乃ち諸將（もろもろのいくさのきみ）を会（つど）へて、問ひて曰（のたま）はく、「今兄磯城、果して逆賊（あたな）ふ意（こころ）有り。召すにも来（まうこ）ず。爲之奈何（あれをせむこといかん）」とのたまふ。諸將の曰（まう）さく、「兄磯城は黠（さと）き賊（あた）なり。先づ弟磯城を遣（つかは）して曉（をし）へ喩（さと）しめ、幷（あは）せて兄倉下（えくらじ）・弟倉下（おとくらじ）に説（いひさと）さしめたまへ。如し遂に帰順（まつろ）はずは、然（しかう）して後に、兵（いくさ）を擧（あ）げて臨（のぞ）まむこと、亦晩（おそ）からじ」とまうす。【倉下、此をば衢羅餌（くらじ）と云ふ】　乃ち弟磯城をして、利（よさ）も害（あしき）も開示（しめ）さしむ。而（しか）るを、兄磯城等（ども）、猶愚（なほおろか）なる謀（はかりごと）を守りて、承伏（したが）ひ肯（か）へにす。 詣は祝禱することを示す曰（えつ）に対して、神霊の降下して詣（いた）ることを示す、ゆえに往きて神を拝することを参詣という(字統）。甲は”よろひ”、矢や刀を防ぐ衣、身につけることを”よろふ”という（字訓）。逆賊之意、幕末でいえば兄磯城は京都守護職、会津藩主松平容保のごとき立場である。兄磯城に逆賊之意のあるわけがない。降って湧いてきた賊から中洲（奈良盆地）を守護する一念である。黠は説文に「堅く�Kきなり」とあり、人に施して奸悪のものをいう。史記、貨殖伝に「傑黠奴（けつかつど）」という語があり、無頼奸悪、ことにわるがしこいものを黠といった（字統）。皇帥は万全の陣を敷いた兄磯城に苦しめられた。薩長が会津藩主松平公を憎んだごとく、兄磯城も逆賊に貶められた。曉は説文に「明なり」とある。広雅、釈古に「曉は慧（さと）るなり、智なり、説くなり」とある（字統）。”さとす”喩は、教え導いて、そのことをわからせる。”かへにす”は不肯の訓、もとこの形で否定の意があった（字訓）。不肯承伏は承服しないこと。 弟磯城も弟猾と同じく兄と袂を分った。烏（からす）に従ひ詣で到り兄の情（こころ）を伝へる。ここで、磐余彦は諸將を集め意見を聴くということをはじめて行なった。兄磯城に逆賊之意があるが如何と問ふ。諸將は兄磯城が黠き賊といふ。まず、説得を行なひ、駄目ならそれから兵を挙げても時期を失ふことはないと余裕すらみせた。弟磯城、兄倉下　弟倉下に利害を説くようしむけたが、兄磯城等は利害で釣られるような人間ではなく、情は変らなかった。しかし、かやうな交渉は、兄磯城側の足並みを乱す効果はあった。兄磯城は、天香山の土が盗まれ、天神地祇が祭られ、高皇産霊尊や吉野の水神も丹生の神が後押しをしているなど、馬鹿馬鹿しく、腹立たしくて取り合ふ気にもなれなかったのであらうが、兄磯城側に「ひょっとして」という疑念を醸成することが、その後の作戦を有利に進めることになった。 時椎根津彥　計之曰　今者宜先遣我女軍　出自忍坂道　虜見之必盡鋭而赴　吾則駈馳勁卒　直指墨坂　取菟田川水　以灌其炭火　儵忽之間出其不意　則破之必也　天皇善其策　乃出女軍以臨之　虜謂大兵已至　畢力相待　先是　皇軍攻必取　戰必勝　而介冑之士　不無疲弊　故聊爲御謠　以慰將卒之心焉　謠曰 　哆々奈梅弖（たたなめて）　伊那瑳能椰摩能（いなさのやまの）　虚能莽由毛（このまゆも）　易喩耆摩毛羅毘（いゆきまもらひ）　多々介陪麼（たたかへば）　和例破椰隈怒（われはやゑぬ）　之摩途等利（しまつとり）　宇介譬餓等茂（うかひがとも）　伊莽媛開珥虚禰（いますけにこね）　 果以男軍越墨坂　從後夾撃破之　斬其梟帥兄磯城等 時に椎根津彦（しひねつひこ）、計（たばか）りて曰（まう）さく、「今は先（ま）づ我（わ）が女軍（めいくさ）を遣（つかは）して、忍坂（おしさか）の道（みち）より出（い）でむ。虜（あた）見て必ず鋭（ときつはもの）を尽（つく）して赴（おもぶ）かむ。吾（われ）は勁（つよ）き卒（いくさ）を駈馳（は）せて、直（ただ）に墨坂（すみさか）を指（さ）して、菟田川（うだがは）の水を取りて、其の炭の火に灌（そそ）ぎて、儵忽（にはか）の間（あひだ）に、其の不意（おもひのほか）に出（い）でば、破（やぶ）れむこと必（かなら）じ」とまうす。天皇其の策（はかりこと）を善（ほ）めて、乃ち女軍を出（いだ）して臨（み）しめたまふ。虜（あた）、大きなる兵（いくさ）已（すで）に至ると謂（おも）ひて、力を畢（つく）して相待（あひま）つ。是より先に、皇軍（みいくさ）、攻めて必ず取り、戦ひて必ず勝てり。而（しか）るに介冑（いくさ）の士（ひとども）、疲弊（つひ）ゆること無きにあらず。故（このゆゑ）に、聊（いささか）に御謠（みうた）を爲（つく）りて、将卒（いくさのひとども）の心を慰（やす）めたまふ。謠（みうたよみ）して曰（のたま）はく、 　楯（たた）並（な）めて　伊那瑳（いなさ）の山の　木（こ）の間（ま）ゆも　い行（ゆ）き瞻（まも）らひ　戦（たたか）へば　我（われ）はや飢（ゑ）ぬ　嶋（しま）つ鳥（とり）　鵜飼（うかひ）が徒（とも）　今（いま）助（す）けに来（こ）ね 果して男軍（をいくさ）を以て墨坂を越えて、後（しりへ）より夾（はさ）み撃ちて破りつ。其の梟帥（たける）兄磯城等を斬りつ。 女軍の構成は判らない。鋭を”ときつはもの”と訓じている。”とき”とは戦闘の初めに、いっせいに揚げる大声（三省堂古語辞典）と解釈したい。勁は筋力の強いこと、転じて強健のものをいう（字統）。儵忽はたちまちの義であるが、荘子、応帝王が出典。南海の帝儵（しゅく）と、北海の帝忽（こつ）とが、中央の神渾沌（こんとん）に報いようとして、人間と同じように七竅（きょう；穴）を与えようと相談し、一日に一竅を穿（うが）ったところ、七日にして渾沌が死んだ（字統）、たちまち（儵忽）死んだのであらう。畢は長い柄の上に丸い網をつけたもので、猟をしてとり尽すが原義、”つくす”と訓じている。介は身の前後によろいをつけた人の形、介冑（かいちゅう）を本義とする。甲羅をもつ虫類を介虫、魚介という（字統）。聊は、詩、檜風（かいふう）、素冠（そかん）に「聊（ねがは）くは子（し）と同（とも）に歸らん」というのも、楽しみねがう意（字統）、”いささか”、と訓じている。語根は「ささ」、”ささら”、”さざれ”と同系で細小のこと、接頭語「い」がつき、わずか、かりそめの意（字訓）。 楯を並べているのは弓矢の攻撃にさらされていたことをうかがはせる。伊那瑳山は、注に説が異なり、不詳とされるも、位置関係からすれば榛原町（奈良観光）南の637ｍの伊那佐山（奈良観光）とみたい。瞻は説文に「臨み視るなり」とある（字統）。嶋は川がめぐり流れていて、嶋のように孤立した形となっているところ（字訓）。嶋つ鳥は鵜飼にかかる枕詞とあるが、墨坂から榛原は兄磯城側に制圧され、身動きの取れない状態であったとみるべきであらう。鵜飼の徒は吉野の国樔部の西の阿太であった。来ね、の”ね”は動詞の未然形につき、ひとに希望し、依頼し、要求する意を表わす、優しく頼むニュアンスがある（三省堂古語辞典）。 椎根津彦が作戦をたてた。忍坂で道臣命、大来目部の奇襲を受けた兄磯城側の心理をついた。忍坂を攻めれば、女軍であろうと敵は主力と思ひ、精鋭を墨坂からも動員するであらう。その隙に椎根津彦が強健の兵で、菟田川の水を取り、墨坂のいこっている炭火を消す。これさへ消せば、一気に軍をうごかし、必ずやこれを破ることができる。磐余彦はこれを良しとなし、女軍を忍坂にだし、自ら陣頭に姿をあらはした。道臣命、大来目部の姿もあったことであらう。案の定、敵は主力を忍坂に集めはじめた。こうなれば、皇軍、攻めれば敵陣を取り、戦へば勝ち、介冑の兵疲れ果てることはなし、と鼓舞をし、謠をつくり、将卒の心を慰めた。実のところ、これまでの墨坂の戦況は、にっちもさっちもゆかないものであった。 　楯をならべて　伊那瑳山の　木の間から　繰り出したり　敵状を覗ったりの戦ひで　一進一退　腹だけが減る　周囲を水に囲まれた嶋に孤立する鳥のようなものだ　鵜飼の徒よ　魚を持って今にも助けにきてくれまいか　と援軍を請う謠で心を慰めるていたらく、やけのやんぱち、うさばらし。 ところが、果して、目前の主力が忍坂に移動を始めた。すかさず、椎根津彦は自らの主力を出し、炭火を消し墨坂を攻略。忍坂に向かって一気に軍を動かし、挟み撃ちにして兄磯城等を斬った。兄磯城にしては、信じがたい、悔みきれぬ結末であったらう。 十有二月癸巳朔丙申　皇師遂撃長髓彥　連戰不能取勝　時忽然天陰而雨氷　乃有金色靈鵄　飛來止于皇弓之弭　其鵄光曄�U　狀如流電　由是　長髓彥軍卒皆迷眩　不復力戰　長髓是邑之本號焉　因亦以爲人名　及皇軍之得鵄瑞也　時人仍號鵄邑　今云鳥見是訛也　昔孔舍衞之戰　五瀬命中矢而薨　天皇銜之　常懷憤懟　至此役也　意欲窮誅　 十有二月（しはす）の癸巳（みづのとのみ）の朔（ついたち）丙申（ひのえさるのひ；４日）(BC663.12.04)に、皇師（みいくさ）遂に長髓彦（ながすねびこ）を撃つ。連（しきり）に戦ひて取勝（か）つこと能（あた）はず。時に忽然（たちまち）にして天陰（ひし）けて雨氷（ひさめ）ふる。乃ち金色（こがね）の霊（あや）しき鵄（とび）有りて、飛び来りて皇弓（みゆみ）の弭（はず）に止れり。其の鵄光（とびひか）り曄�U（てりかかや）きて、状（かたち）流電（いなびかり）の如し。是に由りて、長髓彦（ながすねびこ）が軍卒（いくさのひとども）、皆迷（まど）ひ眩（まぎ）えて、復（また）力（きは）め戦（たたか）はず。長髓は是邑（むら）の本（もと）の号（な）なり。因りて亦以て人の名とす。皇軍（みいくさ）の、鵄の瑞（みつ）を得るに及（いた）りて、時人（ときのひと）仍りて鵄邑（とびのむら）と号（なづ）く。今鳥見（とみ）と云ふは是訛（よこなま）れるなり。昔（むかし）孔舍衞（くさゑ）の戦（たたかひ）に、五瀬命（いつせのみこと）、矢に中（あた）りて薨（かむさ）りませり。天皇（すめらみこと）銜（ふふみも）ちたまひて、常に憤懟（いくみうらむること）を懷（いだ）きたまふ、此の役（えだち）に至りて、意（みこころ）に窮誅（ころ）さむと欲（おもほ）す。 陰の初文は侌で今は蓋栓の形、云は雲の初文、雲を蓋い閉ざすこと（字統）。”しけ”と訓じている、”しけし”は未詳、しめっぽいの意か（三省堂古語辞典）。氷は説文に「凍るなり、水の凝（こほ）る形に象（かたど）る」という（字統）。”とび”は鳶であるが鵄が用いられている。鵄は鴟と同じく、みみずく。鴟は昼間、木かげに休み、夜になると山林を飛びまわって小動物を捕えるという習性が、薄気味悪い夜盗のイメージと結びつき、腹黒い悪者という意味につかう（漢字の話；藤堂明保）。この場合、”みみずく”でなく、”とび”であらう。山海経南山経（平凡社；高馬三良訳）に「鳥がいる。その状は鴟（とび）の如くで人の手、その声は痺（未詳）のよう。その名は鴸。鳴くときはわが名を呼ぶ。これが現われると追放される士がふえる」とある。朱鳥は南、炎天（九天）を表す。いわゆる朱雀である。金色で瑞で霊しき鳥という。曄は、広雅、釈古に「明なり、盛なり」とあり、花のかがやくような美しさ、�Uの�cは「日明かなるなり」で火が明るくかがやくこと（字統）。電で”いなびかり”であるから、流電は放電状態ごときもの、火の鳥とでもいうべきか。吉野は色々な鳥の出没する地である。弭の耳は弓の両端に用いる骨飾・角飾、外すことがないので漆で固定したもの（字統）。眩は目のくらむこと。力を”きはめ”と訓じている、”きはむ”は終わらせる、尽す、決めるとある（三省堂古語辞典）。この鵄の出現で皇帥は、すんでのところで救われた。ここに神慮が働いているといいたい。邑は口（壁に囲まれた都邑）と巴（人が跪居する姿）からなり、左伝、荘公二十八年に「凡そ邑に宗廟先君の主あるを都といひ、無きを邑といふ」とみえる（字訓）とある。銜は元来は馬の口に含ませる”くつわ”、”ふふみもつ”と訓じている。”ふふむ”は含むこと、この場合には、うらみをもつ、ねにもつこと（角川漢和中辞典）。懟は、説文に「怨むなり」とある（字統）。 長髓というのは元来、邑の名前で、それを人の名にしたという。長髓彦とは長髓邑の彦（成年男子）ということになる。古事記によれば、長髓彦は「登美（とみ）の那賀須泥毘古（ながすねひこ）、登美毘古」とあり、先代旧事本紀によれば、饒速日尊は「天の磐船に乗りて天降り、河内国河上の哮峯に坐す。則ち、遷りて、大倭国鳥見の白庭山に坐す。（饒速日の来た道）」とあった。”とみ”は天孫である饒速日尊を迎えた地であり、元来は神聖な地であったはずである。”とみ”は富草（とみくさ）、稲の異名、また、跡見、鳥獣の通った跡をみてそのゆくえを考えること、また、その人（三省堂古語辞典）、鳥見である。鵄以前から”とみ”であったとみるべきで、「鵄、鳥見に訛れる」は額面どほりには受け取れない。文意は、この鵄によって、長髓邑を鵄邑に改めたとなり、書紀の編者達がそうしなければならない事情があったのであらう。古事記の記述を大幅に改訂した。また、この時点では戦況は一進一退で、皇帥は長髓彦の本拠地まで攻め入れていない。鵄邑に変へることができるのは、占領して後でなくてはならない。鵄が飛来した戦場は、戦況からすれば、外山（とび）と称される地の鳥見山（地図）、等弥神社の鳥見霊畤碑の地の方に説得力はある。ここは忍坂の首根っこにあたる重要拠点である。天の香具山に連なる霊峰、多武峯の麓でもある。宇陀側から上宮奥あるいは音羽山を経て下る要路にも位置している。 十二月に入り再び長髓彦と戦ふことになったが、「先是　皇軍攻必取　戰必勝　而介冑之士　不無疲弊」とはうらはらに、いくら戦っても勝てない。ある時、雲が天を覆ひ、雨が凍るほど寒くなった。すると、金色の鵄が飛来し、皇弓の弭に止まるや、まばゆいばかりに光りを放った。長髓彦の軍卒も目がくらみ、戦いに決着をつけることができない。皇軍は、輝く鵄に助けられたので、ここを鵄邑と改名した、それが訛って鳥見となったといふ。孔舍衞の戦で五瀬命を失った磐余彦はそのことで長髓彦を怨んでいた。憤きでんばかりの懟をづっと、いつも懷きつづけてきた。今度の役で、なんとしても長髓彦を討ち取りたかった。討ち取るだけではたりず、聖地にふさわしい事跡がなくてはならなかったとでもしておこう。 乃爲御謠之曰　 　瀰都瀰都志（みつみつし）　倶梅能故邏餓（くめのこらが）　介耆茂等珥（かきもとに）　阿波赴珥破（あはふには）　介瀰羅毘苔茂苔（かみらひともと）　曾廼餓毛苔（そのがもと）　曾禰梅屠那藝弖（そねめつなぎて）　于笞弖之夜莽務（うちてしやまむ）　 又謠之曰 　瀰都々々志（みつみつし）　倶梅能故邏餓（くめのこらが）　介耆茂等珥（かきもとに）　宇惠志破餌介瀰（うゑしはじかみ）　句致弭比倶（くちびひく）　和例破水宛輸例儒（われはわすれず）　于智弖之夜莽務（うちてしやまむ）　 因復縱兵急攻之　凡諸御謠　皆謂來目歌　此的取歌者而名之也　 乃ち御謠（みうたよみ）して曰（のたま）はく 　みつみつし　来目（くめ）の子等が　垣本（かきもと）に　粟生（あはふ）には　韮一本（かみらひともと）　其根（その）が本（もと）　其（そ）ね芽（め）繋（つな）ぎて　撃（う）ちてし止（や）まむ　 又、謠（みうたよみ）して曰（のたま）はく 　みつみつし　来目（くめ）の子等が　垣本（かきもと）に　植（う）ゑし山椒（はじかみ）　口疼（くちびひ）く　我（われ）は忘（わす）れず　撃（う）ちてし止（や）まむ 因りて復（また）兵（いくさ）を縱（はな）ちて急（すみやか）に攻めたまふ。凡（すべ）て諸（もろもろ）の御謠（みうた）をば、皆来目歌（くめうた）と謂（い）ふ。此（こ）は歌へる者（ひと）を的取（さ）して名（なづ）くるなり。　 みつみつし”の”みつ”は御稜威と注されていた。”みつ”は瑞、天神の加護を受けた瑞兆あるとみたい。来目の子等（主語）が、〜して、撃ちてし止まむ（動詞）の構造とみる。垣の亘はかきの象形、建物にかきをめぐらすのは特別の意味をもつ場所をしめす。周の辟雍(へきよう;神宮)の宣榭（せんしゃ；講武の室の名）は、戦勝の報告である献捷（けんしょう）の礼の行なわれるところ、淮南子、本経訓によると、周の武王は、殷に克って紂（ちゅう）を宣室で殺したと伝えられる（字統）。”もと”茂等、茂苔、毛苔の三種ある。茂等を下、茂苔を本、毛苔を許と考へてみる。許は貴人の所をいう語であったと思われる(字訓）。「垣本に」は古事記にはなく、ここでは長髓彦の本拠地の聖所を暗示するものと考へる。保食神が死んだ時額に生まれたのが粟であった。五穀のなかで味が”淡し”で”あは”という、日本各地に粟生（あお、あおう）という地名がみられ、庶民の主食は粟であった。粟は飴や酒を作るにも用いられる。”には”庭、場は、神を迎えて祀る広い場所（字訓）とある。韮は韭が原字、”にら”の生えそろった形、一種の薫があって祭事に用いられた。礼記、曲礼、下に「韭を豐本といふ」とはその祭事に用いるときの名である（字統）。”かみら”と訓じている、”か”は香、鼻を刺激するにおい（字訓）、”みら”はにらの古名（三省堂古語辞典）。粟酒に薫を与へるために韭が用ゐられたのかもしれない。いくら摘んでも芽がでてくる生命力の強い草。一株でもふさふさしている。”ひと”は”一つ”のひと。”そのがもと”は韮の根元といふことであらうが、”その”苑、園、草木や野菜などを植えるための宅地に付属した庭園（字訓）とも解せる。”ねむ”は睨む、”ねめつく”睨めつけること（三省堂古語辞典）。”つなぐ”繋は途切れないようにつなぎたどることから、獣の行方を追い求めること、捜求すること（字訓）。”ねめつなぎて”は根と芽をつないで引き抜くといふのが通説であるが、そんなことができるのか？ 　みつみつし　来目の子等が　垣下に　粟生庭　韮一本　苑が許　そ睨め繋ぎて　撃ちてし止まむ　と置き換えてみた。 ”はじかみ”は生姜、歯で噛むと辛いことで山椒・山葵（わさび）などもさす、山椒の古名とある。”ひひく”は疼く、”ひびく”は響く、しかし、弭比倶は”びひく”であり、不明。垣本に　植ゑし山椒とは、皇帥側の垣か？、誰が植えたのか？長髓彦が植えたもの、その山椒が、また、長髓彦をさすと考へた。意味の通りが悪いが、孔舍衞の戦いで嘗めた苦い喪失、磐余彦の怨みの深さと、手強い相手であるとの戒めが含まれているとおもはれる。的取はまことにあてる、的確にさすと注される。”が”、”そ”や”の”の解釈にはじまり、全体にどう解釈したものか、頭がこんがらがる。 磐余彦はこう歌った 　瑞つし　来目の子等よ　長髓彦の垣下に　粟の生える庭　韮一本にまで　苑の長髓彦の居所　くまなく探索して　撃ちてし止まむ、と聖所を落とすべく号令をかけた。 　瑞つし　来目の子等よ　長髓彦の垣下に　植えられた山椒　口びひく相手である　忘れまいぞ　撃ちてし止まむ、と腹帯をしめなおした。 再び急ぎ兵を放ち長髓彦に攻めかかった。諸々の謠、すべてを来目歌といふ。これらの歌を歌って戦った中核の兵が来目部であったことから、その名がついた。皇帥の戦闘の中核は道臣命、大来目部の部隊であった。 時長髓彥　乃遣行人　言於天皇曰　嘗有天�~之子　乘天磐船　自天降止　號曰櫛玉饒速日命　【饒速日　此云儞藝波椰卑】是娶吾妹三炊屋媛　【亦名長髓媛　亦名鳥見屋媛】遂有兒息　名曰可美眞手命　【可美眞手　此云于魔詩莽耐】　故吾以饒速日命　爲君而奉焉　夫天�~之子　豈有兩種乎　奈何更稱天�~子　以奪人地乎　吾心推之　未必爲信　天皇曰　天�~子亦多耳　汝所爲君　是實天�~之子者　必有表物　可相示之　長髓彥卽取饒速日命之天羽々矢一隻及歩靫　以奉示天皇　々々覽之曰　事不虚也　還以所御天羽々矢一隻及歩靫　賜示於長髓彥　 時に長髓彦（ながすねびこ）、乃ち行人（つかひ）を遣（まだ）して、天皇（すめらみこと）に言（まう）して曰（まう）さく、「嘗（むかし）、天神（あまつかみ）の子（みこ）有（ま）しまして、天磐船（あまのいはふね）に乗りて、天（あめ）より降（くだ）り止（い）でませり。号（なづ）けて櫛玉饒速日命（くしたまにぎはやひのみこと）【饒速日、此をば儞藝波椰卑（にぎはやひ）と云ふ】と曰（まう）す。是吾（わ）が妹（いろも）三炊屋媛（みかしきやひめ）　【亦の名は長髓媛（ながすねびめ）　亦の名は鳥見屋媛（とみやびめ）】を娶（と）りて、遂に児息（みこ）有り。名をば可美眞手命（うましまでのみこと）【可美眞手　此をば于魔詩莽耐（うましまで）と云ふ】と曰す。故（かれ）、吾（やつかれ）、饒速日命を以て、君（きみ）として奉（つか）へまつる。夫れ天神の子、豈（あに）両種（ふたはしら）有（ま）さむや。奈何（いかに）ぞ更（さら）に天神子と稱（なの）りて、人の地（くに）を奪（うば）はむ。吾（やつかれ）心に推（おしはかりみ）るに、未必爲信（いつはり）ならむ」とまうす。天皇、曰（のたま）はく、「天神（あまつかみ）の子亦多（さは）にあり。汝（いまし）が君（きみ）とする所、是実（まこと）に天神の子ならば、必ず表物（しるしもの）有らむ。相示（あひみ）せよ」とのたまふ。長髓彦、即ち饒速日命の天羽々矢（あまのははや）一隻（ひとは）及び歩靫（かちゆき）を取りて、以て天皇に示（み）せ奉（たてまつ）る。天皇、覽（みそなは）して曰（のたま）はく、「事不虚（まこと）なりけり」とのたまひて、還（かへ）りて、所御（みはかし）の天羽々矢一隻及び歩靫を以て、長髓彦に賜示（みせたま）ふ。 行人は使者をつかさどる官（角川漢和中辞典）。櫛玉饒速日命は、旧事紀、天孫本紀では天照霊貴（天照大神）の太子、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊と高皇産霊尊の娘の萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命の子（みこ）、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊、亦の名は天火明命、亦の名は天照国照彦天火明尊、亦の名は饒速日尊、亦の名は膽杵磯丹杵穂命とある。”いろも”は同じ母から生まれた妹。”かしく”炊は、史記、封禅書（ほうぜんしょ）に「晋巫（しんぷ）の祀る五帝として東君、雲中君、司命、巫社巫祠族人、先炊（せんすい）の属」をあげている、先炊は炊母神ともいわれ、礼記、礼運、注に「老婦先炊」とあり、楚巫（そふ）にあっては施糜（しび）という。のちの竈神（そうしん）にあたるものであろう（字統）といふ。”や”屋、人のすむところは”いへ”、”や”は一時的な、仮小屋などに用いる。三炊屋媛は、古事記では登美夜毘売、旧事紀、天孫本紀では御炊屋姫。長髓邑、別名、鳥見邑の炊屋の姫、とならうか。”うまし”美は、もと神に薦める羊牲をほめる語、美味（字訓）。”まで”眞手は左右の手のそろうこと（字訓）。ぽっちゃりした手を合はせて何を祈るのか？古事記では、宇摩志摩遅命（うましまぢのみこと）。”まぢ”は”まぢち”貧鉤の”まぢ”貧で、うまし貧では意味不明。旧事紀、天孫本紀では、饒速日尊は生まれる前に男なら味間見命（うましまみのみこと）と名づけよとなし、宇摩志麻治命（うましまぢのみこと）となった。（先代旧事本紀巻五　天孫本紀；天璽瑞宝）間は廟門に肉を供えて祀り神意を間（うかが）うことが原義（字訓）。神官を暗示する由緒正しい天孫であるといいたい。旧事紀では、饒速日命は宇摩志麻治命を生む前に亡くなり、長髓彦が仕へているのは宇摩志麻治命となっている。書紀の編者は、磐余彦の相手は、天磐船で降りた饒速日命で天孫としている。兩種を”ふたはしら”と訓じている。長髓彦からすれば、天神子が二人いるはずはなく、饒速日命を正統としている。兄磯城もそう対応してきた。未必爲信、つまり”いつはりならむ”と決めつけた。 多耳は多而矣に同じ。”しるし”表は天神子を証するもの。”ははや”羽羽矢は羽の広く大きな矢（三省堂古語辞典）。隻は又(手）もて隹を持つに従う（字統）。”かち”徒、歩でない場合は車、馬に乗ること。靫は矢入れ。事不虚也を”まことなり”と訓じている。天羽羽矢は、天国玉之子天稚彦　是壮士也　宜試之　於是　高皇産霊尊　賜天稚彦天鹿兒弓（あまのかごゆみ）及天羽羽矢（あまのははや）以遣之と、書紀本文では天稚彦が降りた時に地上にもたらされたものであった。高皇産霊尊の遣した湯津杜木の杪に居す雉をそれで射た伝承の矢である。先代旧事本紀巻第三　神祗本紀では、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊に、「天神の御祖は、天神の璽である瑞宝（みずたから）十種を授けられた。所謂、息都鏡（おきつかがみ）が一つ、邊都鏡（へつかがみ）が一つ、八握剣（やつかのつるぎ）が一つ、生玉（いくたま）が一つ、死反玉（しがえしたま）が一つ、足玉（たるたま）が一つ、道反玉（みちかえしたま）が一つ、蛇比禮（へびのひし）が一つ、蜂比禮（はちのひし）が一つ。品物比禮（くさぐさのものひし）が一つである。天神の御祖は数えて、「痛むところが有れば、この十の宝に命じて、一二三四五六七八九十と言って、布瑠部（ふるへ）、由良由良止布留部（ゆらゆらとふるへ）と。このように成せば、死人も生き返る。これは、所謂、布留の言本（ことのもと）である。」と仰った。高皇産霊尊は「葦原中国の敵が神を拒絶して待ち戦うものが有れば、よく策略を用いて欺き防いで、治め平らげよ。」と仰った。三十二人に指示して共に防ぎ守るよう天下りの伴に命じた。」（先代旧事本紀　巻第三；天璽瑞宝）と表に関して壮大な伝承を残している。書紀本文では、高皇産靈尊　以眞床追衾　覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊使降之とそっけない。一書に天照大�~　乃賜天津彦彦火瓊瓊杵尊　八坂瓊（やさかに）曲玉（まがたま）及八咫鏡（やたのかがみ）　草薙劒（くさなぎのつるぎ）　三種（みくさ）寶物（たから）　又以中臣上祖天兒屋命　忌部上祖太玉命　猨女上祖天鈿女命　鏡作上祖石凝姥命　玉作上祖玉屋命　凡五部�~　使配侍焉とあるが、宝物数、伴の数も全く劣勢である。中洲に坐す饒速日尊が日向から遠征してきた磐余彦尊より多く表を所持しているのは当然であらう。天稚彦が降りた葦原中国といふのは、出雲といふより、中洲（大八洲の中心の洲）とみるべきものかもしれない。 輝く鵄の出現は双方に天神の慮を印象づけた。長髓彦から使者が来る。長髓彦が奉じる天神の子（みこ）、櫛玉饒速日命、その子、可美眞手命。それ以外に天神の子と名乗る者が中洲の天神の地（くに）を奪ふなど、どう考えても信じられるものでない。 磐余彦は、天神子は沢山いる。しかし、天神子には必ず表（しるし）となる物があるはず、見せ合おふではないかといふ。長髓彦は饒速日命の所持する、手に鳥がとまったように見える大きな羽の矢と矢入れを磐余彦に示す。磐余彦は、これをみて”うそではない”と述べ、引き返して自ら持つ天羽々矢一隻及び歩靫を長髓彦に示す。 長髓彥見其天表　益懷踧踖　然而凶器已構　其勢不得中休　而猶守迷圖　無復改意　饒速日命　本知天�~慇懃　唯天孫是與　且見夫長髓彥稟性愎佷　不可�ﾍ以天人之際　乃殺之　帥其衆而歸順焉　天皇素聞饒速日命　是自天降者　而今果立忠效　則褒而寵之　比物部氏之遠祖也 長髓彦、其の天表（あまつしるし）を見て、益（ますます）踧踖（おそれかしこま）るを懷（うだ）く。然（しか）れども凶器（つはもの）已（すで）に構（かま）へて、其の勢（いきほひ）、中（なかぞら）に休（や）むこと得ず。而（しかう）して猶（なほ）、迷（まど）へる図（はかりごと）を守（まも）りて、復（また）改（ひるが）へる意（こころ）無し。饒速日命（にぎはやひのみこと）、本（もと）より天神（あまつかみ）慇懃（ねむころに）したまはくは、唯（ただ）天孫（あまつかみのみこ）のみかといふことを知れり。且（また）夫（か）の長髓彦の稟性（ひととなり）愎佷（いすかしまにもと）りて、教（をし）ふるに天人（きみたみ）の際（あひだ）を以てすべからざるを見て、乃ち之を殺しつ。其の衆（もろびと）を帥（ひき）ゐて帰順（まつろ）ふ。天皇、素（もと）より饒速日命は、是（これ）天（あめ）より降れりといふことを聞（きこ）しめせり。而して今果して忠效（ただしきまこと）を立つ。則ち褒めて寵（めぐ）みたまふ。比（これ）物部氏（もののべのうぢ）の遠祖（とほつおや）なり。 ”うだく”懷は”mudaku”のmが欠落した形、”む”は身、”だく”は腕でかかえること、心のうちで思うこと（字訓）。踧（おどろく、つつしむ）踖（ふむ、つつしむ）、論語、郷党に「君、在すときには踧踖如たり」は恐懼して進みえないさま（字統）。”つはもの”は武器あるいはそれを持つ兵士であるが、凶器としている。長髓彦は皇帥からすれば、凶器を有していたことになる。”なかぞら”は中途でと注される。迷圖とは何か。長髓彦は三笠山の蔵に置かれている世嗣文を密かに写し取ったと伝へられている（神武天皇の東征の本意「タケヒト・大和討ち」；ほつまつたゑ「ホツマツタエ」)。この主張するところは、長髓彦は正統な世嗣を知っていながら、饒速日命と妹の子、宇摩志麻治命に継承させようとしていた、とならう。天表を見て足がすくんだとは思はれない。磐余彦尊を見て、世嗣文に記された尊と直感したのであらう。 ”ねむころ”は心をこめて十分にすること（字訓）。天孫是與（とも）にすとは、意が伝はること。稟性は生まれながらの性質。愎は、もとる、そむく、かたいじ、佷はそむきもとる、とどまる（角川漢和中辞典）。”いすかし”はイスカという鳥の嘴のピッタリ合わない所から、事のくい違って合わないこと、性質のねじけていることと注される。生駒での戦闘以来功績のある長髓彦を、それを理由でいきなり殺すといふのは、尋常ではない。饒速日命が、そうせざるを得ない理由があった。天神の意向に対する重大な違反が発覚し断罪されたとみる方が通る。天人之際とは天神と人間の間の義。忠は心を尽すこと、效の字形は弓矢で、矢の曲がるのを正すこと（字統）。 長髓彦は天表を見てたじろぐ。しかし、すでに凶器を構えたまま、その勢いを止め得ず、迷圖を抱いたまま心を改めることはなかった。饒速日命は、元々が天神、以心伝心、磐余彦尊の意が通じた。むしろ、長髓彦の生来の性格に合わないものを感じていた。天神の意（こころ）を人に教へることはできぬ、と長髓彦を殺し、衆人を率ゐて帰順。磐余彦もさすが饒速日命も天神、忠效であると褒めて、遇した。物部氏の遠祖といふ。 ここで一考。かつて、高皇産霊尊と大己貴神の間で、顯露事と幽事の取り引きが成立し、大己貴神が天日隅宮にとこしへに隠れたとき、天津彦彦火瓊瓊杵尊を大己貴神の後に当然、出雲に降ろし政権固めをすると思った。ところが、皇孫を日向に降ろし困惑した。こういう一書があった。「時高皇産靈尊　勅大物主�~　汝若以國�~爲妻　吾猶謂汝有疏心　故今以吾女三穗津姫　配汝爲妻　宜領八十萬�~　永爲皇孫奉護　乃使還降之　即以紀國忌部遠祖手置帆負�~（たおきほおひのかみ）　定爲作笠者　彦狹知�~（ひこさちのかみ）爲作盾者　天目一箇�~（あめまひとつのかみ）爲作金者　天日鷲�~（あまひわしのかみ）爲作木綿者　櫛明玉�~（くしあかるたまのかみ）爲作玉者　乃使太玉命（ふとたまのみこと）　以弱肩被太手繦　而代御手　以祭此�~者　始起於此矣　且天兒屋命（あまのこやねのみこと）　主�~事之宗源者也　故俾以太占之卜事　而奉仕焉　高皇産靈尊因勅曰　吾則起樹天津�~籬及天津磐境　當爲吾孫奉齋矣　汝天兒屋命　太玉命　宜持天津�~籬　降於葦原中國　亦爲吾孫奉齋焉　乃使二�~　陪從天忍穗耳尊（あまのおしほみみのみこと）以降之」出雲の政権の空白はどうなるのか？出雲とは島根の出雲周辺のみを指すのか？事実上、葦原中国の政権を意味していた。高皇産霊尊は大物主神を呼び皇孫に忠誠を誓はせ、葦原中国に戻した。では葦原中国の政権の中枢はいづこにあったのか？少なくとも、皇孫を降ろした日向ではなかった。 葦原中国を平定したのは大己貴神と少彦名命であった。彼等は出雲に本拠を置いて全土の平定を行なったのであらうか？大物主神や同行した事代主神の本拠地は、中洲（奈良盆地）である。ここまで見てきた筆者の判断では、天穗日命、大背飯三熊之大人、天稚彦が降りた地、顯国玉、下照姫、味耜高彦根神が居た地は、出雲でなく、中洲周辺とみたほうがつじつまがあう。大物主神は海から浮き来る大己貴神の幸魂奇魂で三輪の神となった。渡来のものも中洲を目指したのは、そこが当時の中心であったからであらう。だからこそ磐余彦尊もここを目指した。東有美地　青山四周　其中亦有乘天磐船　而飛降者　余謂　彼地　必當足以恢弘大業　光宅天下　蓋六合之中心乎　大己貴神と少彦名命が葦原中国平定ときの拠点は中洲とみたい。すでに見たやうにこれらの神々、人々は素戔嗚尊の末裔であった（そもそもの天から降りた拠点は出雲とされたが）。高皇産霊尊は、火瓊瓊杵尊をすぐさまそこに降ろすのは不穏であり、日向に降ろして、影響力のなくなる時期を待った。饒速日命は中洲に政権の空白を招かぬために降ろされた多数の神々の最後の天神とみたい。神慮は、饒速日命の後、天照大神の正統となる磐余彦尊に中洲を継がせることにあった。 大己貴神と少彦名命が追い詰められ、国譲りの決断を迫られたのは出雲国五十狹狹之小汀であった。後に出雲大社に大己貴神が祭られ、出雲が大己貴神の本拠地にされてしまったのではないか。幕末でいえば、駿府に引き篭もった徳川慶喜公のようなものである。慶喜公は長髓彦の運命を肌で感じ、その末路を辿ることを避けられたのであるまいか。 もう一考。伊奘諾尊伊奘冉尊が大八洲国（おほやしまのくに）をお生みになった。中国的には八州と中央を合わせて九州で全土を意味する。洲は”しま”と訓じているが、”くに”とも訓じ地、陸を意味した。大八洲国は葦原中国（あしはらのなかつくに）でもある。国というのは国家が意識されてからのことであり、その明確な意識の前は地、陸であり、大八洲の中心は中洲（なかつくに）であったらう。 己末年春二月壬辰朔辛亥　命諸將練士卒　是時　層富縣波哆丘岬　有新城戸畔者　【丘岬　此云塢介佐棄】　又和珥坂下　有居勢祝者　【坂下　此云瑳伽梅苔】　臍見長柄丘岬　有猪祝者　此三處土蜘蛛　並恃其勇力　不肯來庭　天皇乃分遣偏師　皆誅之　又高尾張邑　有土蜘蛛　其爲人也　身短而手足長　與侏儒相類　皇軍結葛網　而掩襲殺之　因改號其邑曰葛城　 己末年（つちのとのひつじのとし）の春二月（きさらぎ）の壬辰（みづのえたつ）の朔（ついたち）辛亥（かのとのゐのひ：20日）(BC662.2.20)に、　諸將（もろもろのいくさのきみたち）に命（みことおほ）せて士卒（いくさのひとども）を練（えら）ぶ。是の時に、層富県（そほのあがた）の波哆丘岬（はたのをかさき）に、新城戸畔（にひきとべ）といふ者有り。【丘岬、此をば塢介佐棄（をかさき）と云ふ】　又、和珥（わに）の坂下（さかもと）に、居勢祝（こせのはふり）といふ者有り。【坂下、此をば瑳伽梅苔（さかもと）と云ふ】　臍見（ほそみ）の長柄丘岬（ながらのをかさき）に、猪祝（ゐのはふり）といふ者有り。此の三処（みところ）の土蜘蛛（つちぐも）、並（ならびに）に其の勇力（たけきこと）を恃（たの）みて、来庭（まう）き肯（か）へにす。天皇（すめらみこと）、乃（すなは）ち偏師（かたいくさ）を分（わ）け遣（つかは）して、皆誅（ころ）さしめたまふ。又高尾張邑（たかをはりのむら）に、土蜘蛛有り。其の爲人（ひととなり）、身（むくろ）短（みじか）くして手足長（なが）し。侏儒（ひきひと）と相類（あひに）たり。皇軍（みいくさ）、葛（かづら）の網（あみ）を結（す）きて、掩襲（おそ）ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城（かづららき）と曰（い）ふ。 層富縣は大和国添上、添下郡、丘は山の尾、岬は細く突出している所、波哆は、赤膚（あかはだ）山（地図）のあたりとされる。中洲の北方の勢力であろう。古来より良質の陶土の産する所で奈良から京都へ向かうルート、そこをおさえていた新城戸畔。新城は地名で大和郡山市新木町と注されている。”にひ”は”にへ”すなはち新穀を供して祭ること、新は木に針をうって神意にかなう木をえらび、これを斧斤でたおす。それが新で、これはおそらく神位、位牌に用いる（字訓）。”き”城、柵は外敵の侵入を防ぐために、木柵などをうちこんで区切った一郭、類義語の”しろ”は上代にはまだみえない（字訓）。戸畔は戸女、姥で女性。邪馬台国の時代においては、女王が国を治めていた。書紀の世界では、天皇を強調する。戸畔は先に、戸とは地勢的に出入り口となっている所、区画相互を遮断している所（字訓）、畔とは、田の界、叛と通用して畔逆（叛逆）とも用いる（字統）、とみた。叛逆者のような言い回しとなっている。磐余彦尊の一団は、女王国とは異なる国の形、それがどういうものであるかは、考察をしていないのであるが、を目指していたと考へておきたい。 和珥の坂下は天理市和珥（爾）（地図）のあたりとされる。同地には和爾坐赤坂比古神社、南に和爾下神社、石上神宮、北に春日大社が開かれることになる。居勢はこのあたりの古名であらうか、祝はけがれを祓ひ清める神官である。ここでは”わに”、長柄では”ゐの”の祝となる。中洲はかつて水に浸かっていたとされ、海人の安曇系の和爾氏の進出した地と考へられている。赤坂は赤膚と同じく丹、朱であり、丹敷戸畔、名草戸畔を連想させる。また、赤坂に関して、「大和岩雄氏は備前国赤坂郡に注目する･･･備前国赤坂郡に「石上布都之魂神社」が載り、赤坂郡の郡名は、「ベンガラ朱」ないしは鉄にちなむ地名である。備前の石上布都之魂神社の近くの伊田山からは銅が、西山村城山付近からは褐鉄鉱の砂鉄が、美濃の赤坂にある金生山からは銅・鉄が産出する。そのことから、和爾坐赤坂比占神社の赤坂もまた、金属に閑係すると見ていい」（和爾坐赤坂比古神社；神奈備）とある。 臍見の長柄丘岬は御所市名柄（地図）、長柄神社（神奈備）の地とされる。中洲南方の要衝、五条市から和歌山あるいは伊勢街道へ、また、千早赤阪から南河内につながる扇状地。”ゐの”は不明。丘岬は崖、神を迎え、神に接する所（字統）。崖に穴を掘り石組みを施し、祭場となしたのであらうか。女性の神官（巫女、シャーマン）を土蜘蛛と呼んでいる。”わに”や”ゐの”の霊威を有していた。勇力があり、それぞれ要衝を押さへていたのであるが、兄猾、兄磯城、八十梟帥、長髄彦のような戦闘における強兵を持つ存在ではなかった。また、磐余彦の皇帥、道臣命や大来目部はこの霊威を、もはや、脅威としていなかった。天照大神、高皇産霊尊の直系の天皇（すめらみこと）という清光の世界を押し出してきた。来庭は磐余彦尊の庭に来て帰順すること。不肯は拒否すること。偏帥の偏は一偏で僅かなこと、未熟なことを表し、戦わずして帰順させようと２ヶ月費やしたが、駄目であり、誅することになった、と書紀の編者はいひたい。 高尾張邑は葛城邑と改名された。葛木御歳神社（地図；神奈備）の地とされ金剛山の扇状地に在り、背後の御歳山を神体山としている。古語拾遺（岩波文庫）「御歳神」によれば、「一いは、昔在神代に、大地主神（おほなぬしのかみ；大己貴神に類似）、田を営（つく）る日に、牛の宍（しし）を以て田人に食はしめき、時に、御歳神（みとしのかみ；田の神）の子、其の田に至り、饗（あへ）に唾きて還り、状（さま）を以て父に告（まを）しき。御歳神怒を発（おこ）して、蝗（おほむし；いなご等稲の害虫）を以て其の田に放ちき。苗の葉、忽（たちまち）に枯れ損なはれて篠竹（しの）に似たり。是に、大地主神、片巫（かたかむなぎ）{志止々鳥；しととどりを使う鳥占い}・肱巫（ひぢかむなぎ）{今の俗の竈輪及び米占なり}をして其の由を占ひ求めしむるに『御歳神祟を為す。白猪（しろゐ）、白馬（しろうま）、白鶏（しろかけ）を献りて、その怒を解くべし』とまをしき。教に依りて謝（の）み奉る。御歳神答へ曰（のら）ししく、『実（まこと）に吾が意（こころ）ぞ、麻柄を以て桛（かせひ）に作り之に桛ひ、乃ち其の葉を以て之を掃ひ、天押草を以て之を押し、烏扇（からすあふぎ）を以て之を扇ぐべし（害虫を祓うまじない）。若し此の如くして出で去らずは、牛の宍を以て溝の口に置きて、男茎形（をはせがた）を作りて之に加へ、{是、其の心を厭（まじな）ふ所以なり}薏子（つすだま；はとむぎ）・蜀椒（なるはじかみ；山椒）・呉桃（くるみ）の葉及塩を以て、其の畔（あ）に班（あか）ち置くべし。{古語に、薏玉は都須玉といふなり}（牛の血の呪力により豊作を願う。）』とのりたまひき。仍りて、其の教に従ひしかば、苗の葉復茂りて、年穀豊稔（たなつものゆたか）なり。是，今の神祇官、白猪、白馬、白鶏を以て、御歳神を祭る縁なり。」づづく「跋」に「前の件の神代の事、説盤古に似たり（中国の盤古伝説のように荒唐無稽）。氷を疑ふ意には、信を取ること寔（まこと）に難し（夏しか生きない虫が氷を疑うように今の人は荒唐無稽を信じる神代の人の意は信じ難い）。然れども、我が国家の神物の霊蹤（れいしょう）、今皆見（まなたり）に存り。事に触れて効（しるし）有りて、虚（うそ）と謂ふべからず。但、中古（大化の改新頃）は尚朴（すなほ）にして、礼樂未だ明かならず。事を制（さだ）め法（のり）を垂るるに、遺漏りたること多し（中国にならい礼樂律令を定めるも遺漏が多かった）。方今、聖運初めて啓（ひら）け、尭暉（尭帝の輝く徳）を八洲に照らし、宝暦（大同に改元）惟新に、舜波（舜帝の徳の波）を四海に蕩（ただよ）はし、鄙俗（ひぞく）を往代に易（か）へ（中途半端に中国化された風俗を往古に返す）、粃政（ひせい）を当年に改めたまふ。時に随ひて制を垂れて、万葉の英風を流（つた）へ、廃れたるを興し絶えたるを継ぎて、千載の闕典を補ひたまふ。若し、此の造式の年に当りて(大同元年、806年、平城天皇の御世）、彼の望祑（まつり）の礼を制まずは、竊（ひそか）に恐るらくは、後の今を見むこと、今の古を見る猶（ごと）くならむ。」とある。80歳を越えた齋部広成の大同2年の嘆きの声が聞こえてくる。それは、横にしばらく置いたとして、尭暉・舜波と中国の伝説の聖王尭と舜を登場させていることに注目したい。「齋部」に「此の時に当りて（神武天皇即位）、帝（すめらみこと）と神と、其の際（あひだ）未だ遠からず。殿を同じくし床を共にす（天皇の正殿に天照大神と天爾の鏡剣とが一緒に祀られている）。此を以て常と為す。」尭・舜のごとく、輝ける日神が自然の霊威を司るシャーマン的な世界と異なる原理で、中洲を平らぐといひたいのであらう。即位もしていない磐余彦を天皇、天皇と称するのは、それが新しい政治権力のあり方で、それを現実に創造したのが磐余彦尊と強烈に印象づけるためであらう。 山海経大荒東経の小人国、大荒南経の僬僥国、周饒国ともいうが、これらは侏儒が訛ったものとされる。中国の神話伝説（袁珂、青土社）によれば、「生まれながらにして非常に小さく、三尺もあれば大きいほうで、最も小さい人はわずか数寸しかない。われわれと同じように服を着、帽子をかぶり、きわめて優雅で、山の洞穴に住んでいる。非常に聡明で、重宝なものをいろいろ造ることができる。」といふ。これは大己貴神を輔けた少名彦命を想起させる。ここの土蜘蛛は小さかったが手足が長かったので葛の網にひっかかったといふ。 長髓彦の死によってこの戦が終わったと思ひきや、２ヶ月後には練兵を行なっている。饒速日命は全軍を掌握していなかった。どうも饒速日命の政権の基盤は、磐余彦尊と随分異っていたやうだ。層富縣の波哆丘岬の新城戸畔、和珥の坂下の居勢祝、臍見の長柄丘岬の猪祝、土蜘蛛と蔑視された呼称であるが、女王、卑弥呼のような力を有していたのであらう。天皇といふ新しい力の源に帰順を薦めたが拒まれ、偏師を分け遣して、皆、之を誅した。又、高尾張邑の土蜘蛛は、身短かいが手足が長く、侏儒と似て聡明であったが、皇軍、葛の網で捕へて之を殺した。一連の戦闘を通じて、磐余彦の兵は彼等の霊威をもはや恐れてはいなかった。戦いの経緯に因んで、葛城邑とした。 夫磐余之地　舊名片居　【片居　此云伽哆韋】亦曰片立　【片立　此云伽哆哆知】　逮我皇師之破虜也　大軍集而滿於其地　因改號爲磐余　或曰　天皇往嘗嚴瓮粮　出軍西征　是時　磯城八十梟帥　於彼處屯聚居之　【屯聚居　此云怡波瀰萎】　果與天皇大戰　遂爲皇師所滅　故名之曰磐余邑　又皇師立誥之處　是謂猛田　作城處　號曰城田　又賊衆戰死而僵屍　枕臂處呼爲頬枕田　天皇以前年秋九月　潛取天香山之埴土　以造八十平瓮　躬自齋戒祭諸�~　遂得安定區宇　故號取土之處　曰埴安 夫（そ）れ磐余（いはれ）の地（ところ）の旧（もと）の名は片居（かたゐ）。【片居、此をば伽哆韋（かたゐ）と云ふ】亦、片立（かたたち）と曰ふ。【片立　此をば伽哆哆知（かたたち）と云ふ】　我（わ）が皇師（みいくさ）の虜（あた）を破るに逮（いた）りて、大軍（いくさびとども）集（つど）ひて其の地に満（いは）めり。因（よ）りて改めて号けて磐余（いはれ）とす。或（あるひと）の曰（い）はく、「天皇（すめらみこと）往（むかし）厳瓮（いつへ）の粮（おもの）を嘗（たてまつ）りたまひて、軍（みいくさ）を出（いだ）して西（にしのかた）を征（う）ちたまふ。是（こ）の時に、磯城（しき）の八十梟帥（やそたける）、彼処（そこ）に屯聚（いは）み居（ゐ）たり。【屯聚居、此をば怡波瀰萎（いはみゐ）と云ふ】　果（はた）して天皇と大（おほ）きに戦（たたか）ふ。遂に皇師の爲（ため）に滅（ほろぼ）さる。故（かれ）、名（なづ）けて磐余邑（いはれのむら）と曰ふ」といふ。又（また）皇師の立（たち）誥（たけ）びし処（ところ）、是を猛田（たけだ）と謂ふ。城（き）を作（つく）りし処、号けて城田（きた）と曰ふ。又、賊衆（あたども）戦ひ死（う）せて僵（ふ）せる屍（かばね）、臂（ただむき）を枕（ま）きし処を呼びて頬枕田（つらまきだ）と爲（い）ふ。天皇、前年（さきのとし）の秋九月（ながつき）を以（も）て、潛（ひそか）に天香山の埴土（はにつち）を取りて、八十（やそ）の平瓮（ひらか）を造りて、躬自（みづか）ら斎戒（ものいみ）して諸神（もろもろのかみたち）を祭りたまふ。遂に区宇（あめのした）を安定（しづ）むることを得たまふ。故、土（はにつち）を取りし処を号けて、埴安（はにやす）と曰（い）ふ。 ”かた”片は一対のものの片方。”かたゐ”は物乞い(三省堂古語辞典）であるが、これでは意味が通らない。居や立が付いているのは、対であるべき者の片方が居る、対である建物の片方が立つ、を意味するのであらうか。場所が不明であるが、皇帥が敵を破り、大軍を集結した地、”いはむ”と”いはれ”の語呂合わせを行なっている。天皇往嘗厳瓮粮　出軍西征とは忍坂、墨坂の戦い、兄磯城がそこに大挙集結していた場所、その場所を磐余邑と改名したといふ人もいる。嘗は神が嘗（な）めるが原義。屯は糸を結び合わせた房の形であつめること、聚は人や物を集積すること（字統）。先にみたように、磯城は兄磯城の本拠地であり、磯城を磐余としたとならう。 立誥之処とは全軍総立ちて雄叫んだ場所、猛田は橿原市東竹田町（地図）と注される。更に、弟猾が猛田県主となるのであるが、道臣命が兄猾を撃つ時に誥んだことを指すので宇陀郡の猛田が適当と注されるが、果してそうか？筆者は、これは分水嶺となった兄磯城との決戦にかかわる記述であり、磯城周辺の地と考える。この文脈からすれば、香久山の北に鎮座する竹田神社（神奈備）の地で、この勝利に対して立誥といふのは、臨場感に満ちている。確保した地を長髓彦の攻撃から守るために木柵で囲った。この戦場を、戦死し二の腕に頬を伏せる屍に、頬枕田と名づけた。 區は、多くの祝禱の器を置き、呪儀を行なう意、多くの器を列することから區して分つ意が生まれた(字統）。淮南子、斉俗訓に「往古来今、これを宙といふ、四方上下、これを宇といふ」とあり、宙は時間、宇は空間、領有・支配の及ぶ所をいう（字統）。區宇は支配の及ぶ範囲、”あめのした”と訓じている。”しづむ”は”しづまる”の他動詞、神霊がその祀られるところを定めて、その地におちつくこと、神として祀られることによってその地を支配することから、その地域を平定する意に用ゐる。 磐余の地、旧名は片居、片立という不完全な名称の地、皇帥が虜を破り、大軍が其の地に満ち、磐余と名づけた。或いは、磐余彦尊が、昔し、厳瓮の粮を祭り、食し、軍を出し西方を征った時、磯城の八十梟帥（兄磯城）が集結した所、果して磐余彦尊とおほきなる戦となり、皇帥が遂に滅ぼした所を磐余邑と名づけたといふ人もいる。又、皇帥が総立ちとなり勝利を雄叫んだ所、猛田と謂ふ。柵をめぐらし城田と謂ふ。又、賊衆、戦死し僵せる屍、臂に突っ伏せる所、頬枕田と為した。皇帥がこの劇的な勝利を得たのは、前年秋九月、潛かに天香山の埴土を取り、八十の平瓮を造り、自ら斎戒して諸神を祭ったことにある。磐余彦尊は天神を祀り、自ら天神の子であり、天皇としてまた祀られることにより、区宇を安定るを得た、といひたい。このことを強調するために、再度ここにその話を持ち出した。その土を取った所を、八十の平瓮がもたらした”しづめ”に因み、”はにやす”埴安と名づけた。 このような政権の形態は天帝の子が地上の王として君臨する、中国における殷王朝を思はせる。 了　2005.02.15 　修正及び以下追加　2018.11.01 古事記 「記」では三段階の戦となっている。�@忍坂の大室屋における土雲八十建（つちぐもやそたける）、�A登美毘古（とみびこ）、�B兄師木（えしき）・弟師木（おとしき）。�@については、土雲八十建の室に帯刀したまかない人に料理を運ばせ、歌を合図に一斉に斬りかからせた。�Aについては、生駒で敗れた登美毘古を粟畑の韮と蔑称し、芽と根（一族）をもろとも討ち果たせ、五瀬命を失った苦渋を忘れるな、今度は矢に当らぬよう、大石にへばり、はいづって撃て、とした。�Bについては、伊那佐の山で防戦で食糧難にあったが、邇藝速日命が天降り参陣し、説得あるいは打ち払い、橿原に宮を設け、天下を治めたとした。弟宇迦斯と久米の子の功績を大としている。「紀」はこれを不十分として、抜本的に改変している。 神武天皇　東征　つづき 故、その弟宇迦斯【こは宇陀の水取等の祖なり】、其地（そこ）より幸行（い）でまして忍坂（おさか）の大室（おほむろ）に到りたまひし時、尾生（をあ）る土雲（つちぐも）【訓みて具毛（ぐも）と云ふ】八十建（やそたける）、その室にありて待ち伊那流（いなる）【此の三字、音を以てす】。　故（かれ）ここに天つ神の御子の命（みこと）もちて、饗（あへ）を八十建に賜ひき。ここに八十建に宛（あ）てて、八十膳夫（やそかしはで）を設（ま）けて、人毎に刀佩（たちは）けてその膳夫等（かしはでども）に誨（をし）へて曰（い）ひしく、「歌を聞かば、一時共（もろとも）に斬れ」といひき。　故、その土雲を打たむとすることを明（あか）して歌ひけらく、 　意佐賀能（おさかの） 　意富牟廬夜爾（おほむろやに）　比登佐波爾（ひとさはに）　岐伊理袁理（きいりおり） 　比登佐波爾（ひとさはに） 　伊理袁理登母（いりおりとも） 　美都美都斯（みつみつし） 　久米能古賀（くめのこが） 　久夫都都伊（くぶつつい） 　伊斯都都伊母知（いしつついもち） 　宇知弖斯夜麻牟（うちてしやまむ）　 　美都美都斯（みつみつし） 　久米能古良賀（くめのこらが） 　久夫都都伊（くぶつつい） 　 　伊斯都都伊母知（いしつついもち） 　伊麻宇多婆良斯（いまうたばよらし）　 　忍坂の 　大室屋に 　人多に 　来入り居り 　人多に 　入り居りとも 　みつみつし 　久米の子が 　頭椎 　石椎もち 　 　撃ちてし止まむ 　みつみつし 　久米の子らが 　頭椎 　石椎もち 　今撃たば良らし　 とうたひき。かく歌ひて、刀（たち）を拔きて、一時に打ち殺しき。然（さ）て後、登美毘古（とみびこ）を撃たむとしたまひし時、歌ひけらく、 　美都美都斯（みつみつし） 久米能古良賀（くめのこらが）　　阿波布爾波（あはふには） 　賀美良比登母登（かみらひともと） 　曾泥賀母登（そねがもと） 　曾泥米都那藝弖（そねめつなぎて） 　宇知弖斯夜麻牟（うちてしやまむ） 　みつみつし　久米の子等が　粟生には　韮一莖　そねが莖 　そね芽繋ぎて　撃ちてし止まむ　 とうたひき。また歌ひけらく、 　美都美都斯（みつみつし） 久米能古良賀（くめのこらが）　加岐母登爾（かきもとに） 　宇惠志波士加美（うゑしはじかみ）　久知比比久（くちひひく）　和禮波和須禮士（われはわすれじ） 　宇知弖斯夜麻牟（うちてしやまむ） 　みつみつし　久米の子等が　垣下に　植ゑし椒 　口ひひく　吾は忘れじ　撃ちてし止まむ　 とうたひき。また歌ひけらく、 　加牟加是能（かむかぜの）　伊勢能宇美能（いせのうみの）　意斐志爾（おひしに） 　波比母登富呂布（はひもとほろふ）　志多陀美能（しただみの）　伊波比母登富（ほ）理（いはひもとほり） 　宇知弖斯夜麻牟（うちてしやまむ） 　神風の　伊勢の海の　大石に　這ひ廻ろふ　細螺の　い這ひ廻り　撃ちてし止まむ　 とうたひき。また兄師木（えしき）・弟師木（おとしき）を撃ちたまひし時、御軍（みいくさ）暫（しま）し疲れき。ここに歌ひけらく、 　多多那米弖（たたなめて）　伊那佐能夜麻能（いなさのやまの）　許能麻用母（このまよも） 　伊由岐麻毛良比（いゆきまもらひ）　多多加閇婆（たたかへば）　和禮波夜惠奴（われはやゑぬ） 　志麻都登理（しまつとり）　宇上加比賀登母（うかひがとも） 　伊麻須氣爾許泥（いますけにこね）　 　盾並めて　伊那佐の山の　樹の間よも　い行きまもらひ　戦へば　我はや飢ぬ　島つ鳥 　鵜飼が伴　今助けに来ね　 とうたひき。故ここに邇藝速日命（にぎはやひのみこと）、參赴（まゐおもむ）きて、天つ神の御子に、白ししく、「天つ神の御子天降りましつと聞けり。故、追ひて参降（まゐくだ）り來つ」とまをして、すなはち天津瑞（あまつしるし）を献りて仕え奉りき。　故、邇藝速日命、登美毘古が妹、登美夜毘賣（とみやびめ）を娶（めと）して生める子、宇麻志麻遲命（うましまぢのみこと）【こは物部連・穗積臣・娞臣の祖なり】。故、かく荒（あら）夫琉（ぶる）神等【夫琉の二字、音を以てす】　を言向（ことむ）け平和（やは）し、伏（まつろ）はぬ人等を退（さ）け揆（はら）ひて、畝火（うねび）の白梼原宮（かしはらのみや）に坐しまして、天（あめ）の下治（し）らしめしき。 所見1 「紀」は、吉野や奈良盆地の神々を慰撫し取り込むことを重要とした。天香山の神、丹生の神に焦点があった。磐余彦の夢に天神が「天香山の中の社の中の土で、天平瓮八十枚を造り、天神地祇を祭り、厳呪詛せよ」と述べ、同じことを弟猾が奏上する。その土で八十平瓮・天手抉八十枚と厳瓮を造り、磐余彦は、丹生の川上で天神地祇を祭り、この国を平定できるか否かの祈（うけひ）を行ふ。この祈は成就され、丹生の川上の真坂樹（まさかき）で諸神を祭（いは）ふ。磐余彦は道臣命を厳媛（いつひめ）と名づけ斎主とし、厳瓮（いつへ）を配し、高皇産霊尊を自らに降ろし（顕斎、うつしいはひ）、火を厳香来雷（いつのかぐつち）、水を厳罔象女（いつのみつはのめ）、粮（くらひもの）を厳稲魂女（いつのうかのめ）、薪（たきぎ）を嚴山雷（いつのやまつち）、草を厳野椎（いつののづち）とした。この地の自然に磐余彦の天神の名を与へ、その管轄下に置いたとならうか（書紀巻三）。 天香山の由来について、天から天降りした山といふ伝承があった。伊予国風土記逸文では、「伊与の郡。郡家より東北のかたに天山あり。天山と名づくる由は、倭（やまと）に天（あめ）の加具山（かぐやま）あり。天より天降りし時に、二つに分れて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土（くに）に天降りき。よりて天山といふ、本（ことのもと）なり」、阿波国風土記逸文には、「そら(天)よりふりくだりたる山のおほきなるは、阿波国にふるくだりたるを、あめのやまもと山と云、その山のくだけて、大和国にふりつきたるを、あまのかぐ山といふなん」とある。 天香山神社の祭神は、櫛真命神、延喜式　京中　卜庭神・久慈眞智命神の本社で、古名を大麻等乃知（おほまとのち）神といひ、また母鹿木神ともされ、亀卜に用いる波波迦（ははか；上溝桜、うわみずさくら）の神で、卜占の神とされる。「大和志料」によれば、「当社は彼の卜部等が国家の為に斎祀する所にして、櫛真智は兆の古語即ち鹿骨、亀甲に形(あらは)れたる縦横の文を以て殊に奇の語を加へ、『奇兆(くしまち)』ト称し直に之を神霊とし櫛真智命とせるものなり」とある。これは、おそらくは、神武東征以後に付加された伝承であらう。 「記」においては石窟の前での神事の鹿の骨、朱桜（ははか）、榊を、 「紀」の一書では、鏡を作る金属を天香山から（「記」は天金山の鉄とし、古語拾遺は天香山の銅する）、また、堅石を天の安河から調達している。つまり、天香山ではすでに卜占を含めた神事が行はれており、日神崇拝であったと思はれる。その祭祀権を磐余彦の天神（天照大神）が取り込む必要があったことにならう。天香山の土で造った八十平瓮・天手抉八十枚に供物を盛り、丹生の川上で天神地祇を祭った。何故、丹生なのかは分からない。丹生川上神社上社の祭神は、靇神（おかみのかみ；龍神）であり、古来雨をもたらす水神として祭祀されていたものとされる。太陽と水の祭祀権を握ったことにならうか。 所見2 「記」は 邇藝速日命が「追ひて参降」としており、天から降りて仕へ、劣勢にあった皇軍を勝利に導いたとする。「紀」は、饒速日命も天神であり、天神の心が通じ、長髓彦を殺し磐余彦に従ったとした。いづれにせよ、邇藝速日命（饒速日命）の武功をもって事態を打開することが可能となり、物部氏の興隆の祖となっている。 先代旧事紀によれば、天饒石國饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊（瓊瓊杵尊）の兄を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊（天火明命）とし、河内に降り、倭の鳥見に入り、長髓彦の妹の御炊屋媛を娶り、子（宇摩志麻治命）をもうけるが、産まれる前に亡くなったとする。従って、磐余彦に従ったのは宇摩志麻治命であり、饒速日尊に授かった天璽瑞宝(あまつしるしのみつたから)十種を奉り、天物部(あめのもののべ)を率いて荒ぶる賊を平定し、また、軍を率いて海内を平定したとする。また、饒速日尊は、天上にあって、天道日女命（大国主神の女「むすめ」）を妃とし、すでに天香語山命を産んでいたともいふ。尾張連の祖であるが、別名を高倉下としており、熊野ですでに磐余彦に剣を渡す重要な役割に就いていたことになる。 『籠名神宮祝部丹波國造海部直等氏本記（勘注系図）』によれば、天道日女命は大己貴神と多岐津姫命（天照大神の三女の一女）の間の御子。豊宇氣大神が伊去奈子（いさなご）の嶽に降（あまくだ）りした時、天道日女命は大神に五穀及び桑蠶等の種を請ひ、其の嶽に、眞名井を堀り、其の水を灌（そそ）ぎて、水田陸田を定めて悉く植ゑ、大神がそれを喜び田庭（たには）を与へたとし、「たには」は多爾波で丹波の由来といふ。 火明命（天火明命）と天道日女命の御子を天香語山命と云ひ、火明命は、また、佐手依姫命（市杵嶋姫命、天照大神の三女の一女）を娶り、穂屋姫命をもうける。天香語山命が穂屋姫命を娶り、天村雲命をもうける。その後、火明命は丹波の凡海息津嶋に降り、この島はかつて大穴持神と少彦名神が海中の島々を集めて造ったものといふ。この島は、大寳元辛丑年（701年）に、地震で一夜にして沈み、火明命と佐手依姫命は、後に、籠宮（このみや）に天降りされたとする。 天香語山命と天村雲命は、火明命と共に丹波の凡海嶋に降りており、母道日女命に逢ひ、豊受大神を祭祀することを教へられ、天香語山命は矢原に大神を祭祀し墾田を開始、稲作で人民を豊にする。由良の水門で父、火明命より神宝を奉斎せよと云はれ、その場所を求めて久志備の浜に来ると、多岐津姫命に逢ひ、その地は、伊射奈岐命の坐す地と教へられる。そこに神宝を奉斎し、豊受大神を祭祀（分霊を矢原山に斎奉る）すると泉が湧き出た。その地は、天眞名井水に通じるとされ、天村雲命が天眞名井の水をその泉に濯ぎ、大神の神饌の料とした。 天香語山命は、後に、木国の熊野に遷り大屋津比賣命を娶り、高倉下を生んだとする。 天村雲命は、伊勢神宮三神主のひとつ度会(わたらい)神主らの祖先神とみられている。 先代旧事紀や勘注系図からすれば、磐余彦以前に天孫系の御子が河内経由鳥見あるいは丹波に入っていたことにならう。東国が視野に入る時代となれば、奈良盆地は六合の中心とみなされ、土着の者の他、各地の系統の者が入り込んで割拠していた。磐余彦の時には、物部系が勢力を持ち、饒速日尊ないしは宇摩志麻治命が奈良盆地を統治していた。ただ、その統治は強固とはいへず、離反を策されて弱体化していったやうにみえる。磐余彦の祭政には求心力があった。 磐余彦の時には成立していたとは思へないが、記紀は、磐余彦の優位性を次のやうに主張していやう。 �@天地開闢以来一系の磐余彦であること。 �A天照大神を象徴とし高皇産霊尊、思金神が政務の実質を主導するシステムがあったこと（卑弥呼と男弟、難升米のスタイル）。 �B石窟前及び皇孫降臨における祭祀の形が定まり、榊を神籬とし、鏡（日神）、玉（魂・霊）、和幣（清浄･慰撫）を掛け、神を降ろし、供物や舞楽により神人との交接をなす。布刀玉命に玉、鏡、和幣の懸った榊を持たせ、天児屋命が天照大御神を称へる祝詞を奏上し、天宇受売命が舞踏することが基本となり、諸々の物品を調達・製作する役割や警護や警備が分担される様式のあること。 �C国譲りにより、敗者の神々を皇孫の守護神として再編しえたこと。 そして、何よりも、豊葦原中国を豊葦原瑞穂国とする、稲作による民生の安定といふ大目標があり、新嘗祭がそれを象徴するものであった。 所見3 長髄彦については諸説があり、（生駒の神話）に詳しい。「記」においては、登美の那賀須泥毘古、登美毘古と表記しており、登美（とみ）といふ地名による名である。「紀」は「長髄は是邑の本の号なり」としており、この邑（むら）が「ながすね」と称されていたとする。更に、「胆駒山（いこまのやま）を踰（こ）えて、中洲（うちつくに）に入らむ」とすとあり、この中洲（なかす）と「ね」が訛って「ながすね」となったとみられている。「ね」は「な」の転音で土地の義、「な」に深く入るもの（根）、あるいは地上に高くあらわれているもの（嶺･峯）を「ね」（字訓）とする。弥生時代の後期くらいまで、奈良盆地は淡水湖であったものの、河川上流からの沖積、弥生人が大和川の開削などの水抜き、農耕による開発により中洲状態から水稲に適した地へと変貌したとされる。また、「紀」は、長髄彦の軍の戦意をそいだ「鵄光」に因み、「鵄の瑞（みつ）を得るに及（いた）りて、時人（ときのひと）仍りて鵄邑（とびのむら）と号（なづ）く」ともしており、「とび」が「とみ」と訛ったとしていた。 「記」は登美の那賀須泥毘古としており、登美も那賀須泥も地名なら、地名二つを名とすることになり、登美が広域で那賀須泥がその中にあることになり、中洲根ならこちらが広域になり逆転する。また、鵄に因んだ登美でもあるまい。中洲は水稲に適しており、稲の別名「とみくさ」の「とみ」とみることもできやう。那賀須泥（ながすね）は、長髄からすれば、髄が長いとなり、脛が長い人であり、折口信夫は、「髄の長い事から出たのは勿論だが、其と共に、蠻人の渾名として用ゐられた七束脛ナナツカハギ・八束脛ヤツカハギ又は土蜘蛛の如く、 山野を走る速さを、身体的特長に聯想して言ふのと同じ考へである。其と共に、長脚が一種の奴隷を意味する後の習慣を思ひ合せれば、この名は、一種の侮蔑を含んだものだった事が考へられる（大倭宮廷の剏業期）」としている。「記」の歌謡の「粟生には　韮一莖」では、粟畑の臭いニラを登美毘古とみて根こそぎ抜き取れとしていた。名草戸畔の頭を祀る「宇賀部神社(うかべじんじゃ；おこべさん)」宮司の小野田家に伝わる「名草戸畔が長身」であったとする伝承から、ポリネシア系の渡来人とみる説も思ひ起こされる。また、折口氏は、トミビコの妹、トミヤ媛（三炊屋媛）を登美の男酋と女酋とみ、トミヤ媛が女酋にして、最高巫女であったとし、「饒速日命の妻メとなって、御子を生んだと言ふのは、神・巫女・酋長の三對立の闘係を示してゐる（前掲書）」とみている。皇孫、瓊瓊杵尊が吾田鹿葦津姫を娶って子をなしたやうなもので、登美毘古はその子が地を継ぐものと思っていたのであらう。そこにもう一人の天孫が現れたとなれば、これを侵略者と疑ってかかって不思議は無い。 天孫である「しるし（天津瑞）」が問題となった。 「紀」は、長髄彦が饒速日命の天羽羽矢一隻（あまのははやひとは）、歩靫（かちゆき）を見せ、磐余彦が同様を長髄彦に見せたとする。天羽羽矢と歩靫は天若日子（天稚彦）が葦原中国に遣はされた時に持たされた天之麻迦古弓と天羽羽矢が出典であり、天神の持ち物とされ、天孫であることを証明する確かな「しるし」とみなされた。先代旧事本紀では、宇摩志麻治命が平定を終へて「韴霊(ふつのみたま)剣、布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀」と十種の「天璽瑞宝」を奉納したと記している。 饒速日命の授かったとされる天璽瑞宝と韴霊剣は後に石上神社で物部氏の神宝として祭祀されることになっており、天皇家では三種の神器が正統とされる。また、すでにみたやうに、「紀」は火明命を瓊瓊杵尊の兄ではなく、瓊瓊杵尊が吾田鹿葦津姫との間にもうけた子として、火明命と饒速日命の同一性を明確に否定していた。
岩倉紙芝居館　古典館　日本書紀　3-3 上田　啓之 .