大鷦鷯天皇　仁�ｺ天皇 元年春正月丁丑朔己卯（AD313.01.03）　　》》 二年春三月辛未朔戊寅（AD314.03.08）　　》》 四年春二月己未朔甲子（AD316.02.06）　　》》 七年夏四月辛未朔（AD319.04.01）　　》》 .	十年冬十月（AD322.10）　　》》 十一年夏四月戊寅朔甲午（AD323.04.17）　　》》 十二年秋七月辛未朔癸酉（AD324.07.03）　　》》 十三年秋九月（AD325.09）　　》》 十四年冬十一月（AD326.11）　　》》
(岩波文庫　日本書紀　坂本太郎･家永三郎･井上光禎･大野晋　校注　を読む。) 本文に使用した漢字テキストについては古代史獺祭からダウンロードさせていただいている。 大鷦鷯天皇（おほさざきのすめらみこと）　仁�ｺ天皇（にんとくてんわう） 大鷦鷯天皇　譽田天皇之第四子也　母曰仲姬命　五百城入彥皇子之孫也　天皇幼而聰明叡智　貌容美麗　及壯仁寛慈惠　○卌一年春二月　譽田天皇崩　時太子菟道稚郎子　讓位于大鷦鷯尊　未卽帝位　仍諮大鷦鷯尊　夫君天下　以治萬民者　蓋之如天　容之如地　上有驩心　以使百姓　百姓欣然　天下安矣　今我也弟之　且文獻不足　何敢繼嗣位　登天業乎　大王者風姿岐嶷　仁孝遠聆　以齒且長　足爲天下之君　其先帝立我爲太子　豈有能才乎　唯愛之者也　亦奉宗廟社稷重事也　僕之不佞　不足以稱　夫昆上而季下　聖君而愚臣古今之常典焉　願王勿疑　須卽帝位　我則爲臣之助耳　大鷦鷯尊對言　先皇謂　皇位者一日之不可空　故預選明�ｺ　立王爲貳　祚之以嗣　授之以民　崇其寵章　令聞於國　我雖不賢　豈棄先帝之命　輙從弟王之願乎　固辭不承　各相讓之　 大鷦鷯天皇は、誉田天皇（ほむたのすめらみこと）の第四子（よはしらにあたりたまふみこ）なり。母（いろは）をば仲姫命（なかつひめのみこと）と曰（まう）す。五百城入彦皇子（いほきいりびこのみこ）の孫（みうまご）なり。天皇（すめらみこと）、幼（いときな）くて聡明（さとく）く叡智（さか）しくまします。貌容（みかたちみすがた）美麗（うるは）し。壮（をとこざかり）に及（いた）りて、仁寛（めぐみ）慈惠（うつくしび）まします。四十一年の春二月（きさらぎ）に、誉田天皇、崩（かむあが）りましぬ。時に太子（ひつぎのみこ）菟道稚郎子（うぢのわきいらつこ）、位（みくらゐ）を大鷦鷯尊（おほさざきのみこと）に讓りまして、未（いま）だ即帝位（あまつひつぎしろしめ）さず。仍（よ）りて大鷦鷯尊に諮（まう）したまはく、「夫（そ）れ天下（あめのした）に君（きみ）として、万民（おほみたから）を治（をさ）むる者（ひと）、蓋（うだきおほ）ふこと天（あめ）の如（ごと）く、容（うけい）るること地（つち）の如し。上（かみ）、驩（よろこ）ぶる心（みこころ）有りて、百姓（おほみたから）を使ふ。百姓欣然（よろこ）びて、天下安（やすらか）なり。今我（やつかれ）は弟（おとと）なり。且（また）文献足（さとりた）らず。何（いかに）ぞ敢へて嗣位（みつぎのくらゐ）に継（つ）ぎて、天業登（あまつひつぎし）らむや。大王（きみ）は風姿（みやびすがた）岐嶷（いこよか）にまします。仁孝（ひとをめぐみおやにしたがふこと）遠（とほ）く聆（きこ）えて、歯（みよはひ）且（また）長（ひととな）りたまへり。天下（あめのした）の君（きみ）と爲（ま）すに足れり。其（そ）れ先帝（さきのみかど）の、我（やつかれ）を立てて太子（ひつぎのみこ）としたまへることは、豈（あに）能才（よきかど）有らむとしてなれや。唯（ただ）愛（めぐみ）したまひてなり。亦（また）宗廟社稷（くにいえ）に奉（つか）へまつることは重事（おもきこと）なり。僕（やつかれ）は不佞（みつな）くして、称（かな）ふに足らず。夫れ昆（このかみ）は上（かみ）にして季（おとと）は下（しも）に、聖（ひじり）は君にして愚（おろかひと）は臣（やつこらま）なるは、古今（いにしへいま）の常典（つねののり）なり。願はくは王（みこ）、疑ひたまはず、即帝位（あまつひつぎしろしめせ）せ。我は臣として助けまつらまくのみ」とのたまふ。大鷦鷯尊、対（こた）へて言（のたま）はく、「先皇（さきのきみ）の謂（のたま）ひしく、『皇位（きみのくらゐ）は一日（ひとひ）も空（むな）しかるべからず』とのたまひき。故（かれ）、預（あらかじ）め明�ｺ（よきひと）を選びて、王（きみ）を立てて弐（まうけのきみ）としたまへり。祚（さいは）へたまふに嗣（みつぎ）を以てし、授（さづ）けたまふに民（おほみたから）を以てしたまふ。其の寵（めぐみ）の章（しな）を崇（あが）めて、国（あめのした）に聞えしむ。我（おのれ）、不賢（をさな）しと雖も、豈先帝（さきのみかど）の命（おほみことのり）を棄（す）てて、輙（たやす）く弟王（おとのみこ）の願（みねがひ）に従はむや」とのたまふ。固く辞（いな）びたまひて承（う）けたまはじして、各（おのおの）相譲（あひゆづ）りたまふ。 古事記は、「故、天皇、崩（かむあが）りましし後、大雀の命は天皇の命（みこと）に從ひて、天の下を宇遲能和紀郎子（うぢのわきいらつこ）に讓りたまひき。ここに大山守の命は天皇の命に違（たが）ひて、なほ天の下を獲むと欲（おも）ひて、その弟皇子（おとみこ）を殺さむ情（こころ）ありて、竊（ひそ）かに兵（つはもの）を設（ま）けて攻めんとしき」と、さらりとすぎる。書紀は巻を改め、両者の思ひに立ち入った。古事記とは異なり、まず、太子の菟道稚郎子が、位を大鷦鷯尊に讓らうとしたと云ふ。年齢的には一番若いが、太子であり、後継者とされた菟道稚郎子が諮、上から下に相談すること、諮された。「諸の典籍を王仁に習ひたまふ。通り達らずといふこと莫し（書紀巻１０）」といふほど典籍に優れた菟道稚郎子の言葉は、漢書、高后紀、「凡有天下治万民者蓋之如天容之如地上有驩心以使百姓百姓欣然以事其上驩欣交通而天下治」による。 蓋は”おおう”こと、”うだきおほふ”と訓じている、抱き覆うと注される。驩はおどりあがってよろこぶこと、欣はうきうきとしてよろこぶこと。儒家の思想、聖王の理想の治世が語られている。それが菟道稚郎子の思想であったといひたい。菟道稚郎子は、大鷦鷯尊を「天下に君として」「大王」と称している。自分は弟、年少であり、「文献足らず」、これは論語、佾篇9の「夏禮吾能言之杞不足徴也殷禮吾能言之宋不足徴也文獻不足故也足則吾能徴之矣」から来ており、徴するべき記録と賢者の乏しいことと注される。つまり、天下の政（まつりごと）は上に述べたごとくあるべきものだが、我が国にはそれを証明する記録もなく、伝へる賢者も乏しく、私が即位しても実現されない、どうして嗣位できやうか？ 大王（大鷦鷯尊）は風姿岐嶷、これはよく用いられ、魏志、明帝紀の「帝生数歳而有岐嶷之姿」であり、岐（たかく）嶷（さとい）、生まれながらにして才知が人より優れているお姿をしておられる。更に仁、孝となれば、儒家の重んじる徳目、遠くにまでその評判が伝わり、御歳も長じておられ天下の君として申し分はない。誉田天皇（応神天皇）が私を太子とされたのは、能（よき）才（かど：才能）ありといふことではなく愛（いと）しく思はれ（めぐみ）てのこと。 宗廟は祖先のみたまや、社は土地の神、稷は穀物の神、古代中国の諸侯は宮殿の右に社稷、左に宗廟を祭った、転じて国家の義となった。宗廟社稷に奉（つか）へるとは、祭事（まつりごと）、すなはち、政（まつりごと）に仕へること、国家を運営すること、重大事である。 漢書、文帝紀に、「奉高帝宗廟重事也寡人不佞不足以称」、顔師古注に「不佞不材也」とある、と注される。材は才のこと、”みつなし”は才能の無いこと。稱、”かなふ”は匹敵する、不足以稱は相応しくないこと。 昆は（長）兄、季は（末）弟、聖（大鷦鷯尊）は君にして愚（菟道稚郎子）は臣とするのが常道。私の心を疑ふことなく、王たるあなたが帝位に就いてください。臣下として助力いたします。菟道稚郎子は儒家が理想とする禅譲の礼を執った、我が国にもかくも素晴らしい太子がおられたと記した。 君、王は”きみ”、大王は”おほきみ”と称された。天皇号の成立は七世紀初頭の推古朝、あるいは七世紀の天武朝とされ、律令国家成立以前の大和政権の王（きみ）を大王（おほきみ）と称したとされる。稲荷山古墳出土の鉄剣（国宝「金錯銘鉄剣」）に、「獲加多支鹵大王」の名が刻まれていることから、江田船山古墳出土銀象眼銘文入り鉄剣（HP）の「治天下獲○○○鹵大王」も獲加多支鹵大王と同定され、稲荷山古墳出土の鉄剣には、辛亥年(471年）の干支があり、この大王は477年478年に使を宋に派遣した（宋書倭国伝）倭王武、雄略天皇と考えられている。書紀は、菟道稚郎子が大鷦鷯尊に大王の器量ありとしてはじめて使用しており、誉田天皇（応神天皇）あたりからのこととしたことにならう。 大鷦鷯尊は、誉田天皇（応神天皇）が「皇位は一日も空しかるべからず。」と考えあらかじめ明�ｺ（菟道稚郎子）を王に立て弐（まうけのきみ：儲けの君、皇太子）とされた、と応へる。弐はふたつ、わける、そへるの義。集解は、魏志、文帝紀註所引献帝伝の「四海不可以一日曠主」によると注される。曠はあく、からにする、空しくするに同じ。左伝に、「天祚明徳：天明徳に祚（さいはひ）す：天子の位をさづける」とある。祚之以嗣とは、菟道稚郎子を跡継として位をさづけること。授之以民とは菟道稚郎子に民を授ける、政治をまかせること。崇其寵章とは菟道稚郎子に授けられた地位を尊ぶこと。令聞於国、国中に知らしめる。文選、冊魏公九錫文の、「先王并建明徳祚之以土分之以民崇其寵章：寵愛のしるしを尊んで、国中にそれが聞こえるやうにした」からくると注される。 私には、貴方ほどの見識はありませんが、どうして、先帝の命を破って、たやすく貴方の願ひに従ふことができましょうかと、承（うけたま）はらず、固く辞して、お互いが譲り合ったといふ。古事記にはないこの対話は、書紀の編者達が菟道稚郎子の明徳と大鷦鷯尊の仁徳をどうしても、ここにとどめおく必要があるとして、挿話されたものに違ひあるまい。 是時　額田大中彥皇子　將掌倭屯田及屯倉　而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰　是屯田者　自本山守地　是以　今吾將治矣　爾之不可掌　時淤宇宿禰啓于皇太子　太子謂之曰　汝便啓大鷦鷯尊　於是　淤宇宿禰啓大鷦鷯尊曰　臣所任屯田者　大中彥皇子距不令治　大鷦鷯尊　問倭直祖麻呂曰　倭屯田者　元謂山守地　是如何　對言　臣之不知　唯臣弟吾子籠知也　適是時　吾子籠遣於韓國　而未還　爰大鷦鷯尊　謂淤宇曰　爾躬往於韓國　以喚吾子籠　其兼日夜而急徃　乃差淡路之海人八十爲水手　爰淤宇往于韓國　卽率吾子籠而來之　因問倭屯田　對言　傳聞之　於纒向玉城宮御宇天皇之世　科太子大足彥尊　定倭屯田也　是時　勅旨　凡倭屯田者　毎御宇帝皇之屯田也　其雖帝皇之子　非御宇者　不得掌矣　是謂山守地非之也　時大鷦鷯尊　遣吾子籠於額田大中彥皇子　而令知狀大中彥皇子　更無如何焉　乃知其惡　而赦之勿罪 是（こ）の時に、額田大中彦皇子（ぬかたのおほなかつひこのみこ）、将（まさ）に倭（やまと）の屯田（みた）及び屯倉（みやけ）を掌（つかさど）らむとして、其の屯田司（みたのつかさ）出雲臣（いづものおみ）が祖（おや）淤宇宿禰（おうのすくね）に謂（かた）りて曰（い）はく、「是の屯田は、本より山守（やまもり）の地（ところ）なり。是（ここ）を以て、今吾、将に治（つく）らむとす。爾（なむぢ）は掌るべからず」といふ。時に淤宇宿禰、皇太子（ひつぎのみこ）に啓（まう）す。太子、謂（かた）りて曰（のたま）はく、「汝（なむぢ）、便（すなは）ち大鷦鷯尊に啓（まう）せ」とのたまふ。是（ここ）に、淤宇宿禰（おうのすくね）、大鷦鷯尊（おほさざきのみこと）に啓して曰（まう）す、「臣（やつかれ）が任（あづか）れる屯田（みた）は、大中彦皇子（おほなかつひこのみこ）、距（さまた）げて治（つく）らしめず」とまうす。大鷦鷯尊、倭直（やまとのあたひ）が祖麻呂（まろ）に問ひて曰（のたま）はく、「倭（やまと）の屯田（みた）は、元より山守（やまもり）の地（ところ）と謂（い）ふは、是（これ）如何に」とのたまふ。対（こた）へて言（まう）さく、「臣（やつかれ）は知らず。唯し臣が弟（いろど）吾子籠（あごこ）のみ知れり」とまうす。是の時に適（あた）りて、吾子籠、韓国（からくに）に遣（つかは）されて未だ還（かへりまうこ）ず。爰（ここ）に大鷦鷯尊、淤宇（おう）に謂（かた）りて曰（のたま）はく、「爾（なむぢ）躬（みづか）ら韓国に往（まか）りて、吾子籠を喚（め）せ。其れ日夜（ひるよる）を兼ねて急（すみやか）に徃（まか）れ」とのたまふ。乃ち淡路（あはぢ）の海人八十（あまやそ）を差（さ）して水手（かこ）とす。爰に淤宇、韓国に往りて、即ち吾子籠を率（ゐ）て来（まうけ）り。因りて、倭の屯田を問ひたまふ。対へて言（まう）さく、「伝（つて）に聞（うけたまは）る。纒向（まきむくの）玉城宮（たまきのみやに）御宇天皇（あめのしたしらししすめらみこと）の世（みよ）に、太子（ひつぎのみこ）大足彦尊（おほたらしひこのみこと）に科（おほ）せて、倭の屯田を定めしむ。是の時に、勅旨（のたまふおほみこと）は、『凡（およ）そ倭の屯田は、毎（つね）に御宇（あめのしたしら）す帝皇（すめらみこと）の屯田なり。其れ帝皇（みかど）の子（みこ）と雖（いふと）も、御宇（あめのしたしら）すに非（あら）ずは、掌ること得じ』とのたまひき。是を山守の地（ところ）と謂（い）ふは、非（あら）ず」とまうす。時に大鷦鷯尊、吾子籠を額田大中彦皇子のみもとに遣して、状（ことのかたち）を知らしむ。大中彦皇子、更に如何といふこと無し。乃ち其の悪（さがな）きを知（しろ）しめせれども、赦（ゆる）して罪（つみ）せず。　 額田大中彦皇子の一件も古事記には記されていない。額田大中彦皇子は、大山守皇子の兄（書紀巻10）であった。母は共に高城入姫（仲姫命の姉）、誉田天皇（応神天皇）の長男、五百城入彦皇子の孫でもある。誉田天皇（応神天皇）が薨去されたとき、太子の菟道稚郎子と大鷦鷯尊が皇位を譲り合ったため、誉田天皇の恐れておられた空位状態が生まれ、双方が継がぬならその隙間を狙って画策をしやうとする者が現れてきた。 額田大中彦皇子は、最年長であるが、弟の大山守命が山川林野を掌らされたものの、誉田天皇から何等役割を任じられることがなかった。額田大中彦皇子は、倭（やまと：奈良盆地）の屯田（天皇供御料田）及び屯倉（朝廷直轄領）に目をつけ、その屯田司をしていた淤宇宿禰に、その権限を大山守命に返せ、今後は自分が行ふと宣告した。本来なら主管する大山守命が阻止すべきものであるが、だういふことか、全くふれられていない。困った淤宇宿禰は太子、菟道稚郎子に相談をかけた。太子は大鷦鷯尊に相談してほしいと関与を避けた。見識には優れているが、現実の政治的調整には不向きであったと暗示している。 淤宇宿禰は大鷦鷯尊を頼った。倭の屯田及び屯倉のことは倭を管轄する麻呂にも係はることであり、大鷦鷯尊は、倭の屯田及び屯倉のことが大山守命の管轄下にあるかを問ふた。麻呂はそのとき、韓国に派遣されていた弟の吾子籠のみが真相を知っていると、自ら対へることを避けた。大鷦鷯尊は、ならば、即刻、麻呂自ら韓国へ行き吾子籠を連れ戻せと命じ、淡路の御原の海人（書紀巻10）を水手として手配をした。 早々に帰国した吾子籠は、「伝へ承るところによれば、纒向玉城宮御宇天皇（活目入彦五十狹茅天皇：垂仁天皇）の世に、太子大足彦尊（後の大足彦忍代別天皇：景行天皇）に倭の屯田を定められたとき、倭の屯田は天下を治める帝位にある天皇の屯田であり、帝皇の子といふとも天下を治めているのでなければ、掌ることはできないとされたといふ。山守の地とは有り得ぬことである」ときっぱりと対へた。 大鷦鷯尊は、その気骨のある吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣はして、そのことを知らしめた。大鷦鷯尊は額田大中彦皇子の出方を見守った。大中彦皇子は、それでは仕方がないと身を引き、大鷦鷯尊は事を穏便に処してしまはれた。大鷦鷯尊の政治手腕を語るものである。 然後　大山守皇子　毎恨先帝廢之非立　而重有是怨　則謀之曰　我殺太子　遂登帝位　爰大鷦鷯尊　預聞其謀　密吿太子　備兵令守　時太子設兵待之　大山守皇子　不知其備兵　獨領數百兵士　夜半發而行之　會明詣菟道　將度河　時太子服布袍取檝櫓　密接度子　以載大山守皇子而濟　至于河中　誂度子　蹈船而傾　於是　大山守皇子　墮河而沒　更浮流之歌曰　知破揶臂苔　于旎能和多利珥　佐烏刀利珥　破揶鷄務臂苔辭　和餓毛胡珥虚務　然伏兵多起　不得著岸　遂沈而死焉　令求其屍　泛於考羅濟　時太子視其屍　歌之曰　智破揶臂等　于旎能和多利珥　和多利涅珥　多氐屢　阿豆瑳由瀰摩由瀰　伊枳羅牟苔　虚虚呂破望閉耐　伊斗羅牟苔　虚虚呂破望閉耐　望苔弊破　枳濔烏於望臂涅　須慧弊破　伊暮烏於望比涅　伊羅那鷄區曾虚珥　於望比　伽那志鷄區　虚虚珥於望臂　伊枳羅儒層區屢　阿豆瑳由瀰摩由瀰　乃ち葬于那羅山　 然（しかう）して後に、大山守皇子（おほやまもりのみこ）、毎（つね）に先帝（さきのみかど）の廃（す）てて立てたまはざることを恨みて、重（かさ）ねて是（こ）の怨（うらみ）有り。則（すなは）ち謀（はかりごと）して曰（い）はく、「我（われ）、太子（ひつぎのみこ）を殺（ころ）して、遂（つひ）に帝位登（あまつひつぎし）らむ」といふ。爰（ここ）に、大鷦鷯尊（おほさざきのみこと）、預（あらかじ）め其の謀を聞（きこ）しめして、密（ひそか）に太子に告（まう）して、兵（いくさ）を備（そな）へて守らしむ。時に太子、兵を設（まう）けて待つ。大山守皇子、其の兵備（いくさそな）へたることを知らずして、独（ひとり）数百（ももあまり）の兵士（いくさ）を領（ひき）ゐて、夜半（よなか）に発（た）ちて行く。会明（あけぼの） に、菟道（うぢ）に詣（いた）りて、将（まさ）に河（かは）を度（わた）らむとす。時に太子、布袍（あさのみそ）服（き）たまひて檝櫓（かぢ）を取りて、密に度子（わたりもり）に接（まじ）りて、大山守皇子を載（ふねにの）せて済（わた）したまふ。河中（かはなか）に至りて、度子に誂（あと）へて、船を蹈（ほ）みて傾（くつがへ）す。是に、大山守皇子、墮河而沒（かはにおち）りぬ。更に浮き流れつ歌（うたよみ）して曰（い）はく、 　知破揶臂苔（ちはやひと）　于旎能和多利珥（うぢのわたりに）　佐烏刀利珥（さをとりに）　破揶鷄務臂苔辭（はやけむひとし）　和餓毛胡珥虚務（わがもこにこむ）　 　ちはや人（ひと）　菟道（うぢ）の渡（わたり）に　棹（さを）取（と）りに　速（はや）けむ人（ひと）し　我（わ）が対手（もこ）に来（こ）む 然（しか）るに伏兵（かくれたるつはもの）多（さは）に起（おこ）りて、岸（ほとり）に著（つ）くこと得ず。遂に沈みて死（みう）せぬ。其の屍（かばね）を求めしむるに、考羅済（かわらのわたり）に泛（うきい）でたり。時に太子、其の屍を視（みそなは）して、歌（みうたよみ）して曰（のたま）はく、 　智破揶臂等（ちはやひと）　于旎能和多利珥（うぢのわたりに）　和多利涅珥（わたりでに）　多氐屢（たてる）　阿豆瑳由瀰摩由瀰（あづさゆみまゆみ）　伊枳羅牟苔（いきらむと）　虚虚呂破望閉耐（こころはもへど）　伊斗羅牟苔（いとらむと）　虚虚呂破望閉耐（こころはもへど）　望苔弊破（もとへは）　枳濔烏於望臂涅（きみをおもひで）　須慧弊破（すゑへは）　伊暮烏於望比涅（いもをおもひで）　伊羅那鷄區曾虚珥（いらなけくそこに）　於望比（おもひ）　伽那志鷄區（かなしけく）　虚虚珥於望臂（ここにおもひ）　伊枳羅儒層區屢（いきらずそくる）　阿豆瑳由瀰摩由瀰（あづさゆみまゆみ） 　ちはや人（ひと）　菟道（うぢ）の渡（わたり）に　渡手（わたりで）に　立（た）てる　梓弓檀（あづさゆみまゆみ）　い伐（き）らむと　心（こころ）は思（も）へど　い取（と）らむと　心（こころ）は思（も）へど　本辺（もとへ）は　君（きみ）を思（おも）ひ出（で）　末辺（すゑ）は　妹（いも）を思（おも）ひ出（で）　悲（いらな）けくそこに　思（おも）ひ　愛（かな）しけく　ここに思（おも）ひ　い伐（き）らずそ来（く）る　梓弓檀（あづさゆみまゆみ） 乃ち那羅山（ならやま）に葬（はぶ）る。 古事記に曰く、「故、天皇、崩（かむあが）りましし後、大雀の命は天皇の命（みこと）に從ひて、天の下を宇遲能和紀郎子（うぢのわきいらつこ）に讓りたまひき。ここに大山守の命は天皇の命に違（たが）ひて、なほ天の下を獲むと欲（おも）ひて、その弟皇子（おとみこ）を殺さむ情（こころ）ありて、竊（ひそ）かに兵（つはもの）を設（ま）けて攻めんとしき。ここにして大雀の命、その兄の兵（つはもの）を備ふることを聞かして、すなはち使者（つかひ）を遣はして、宇遲能和紀郎子に告（つ）げしめたまひき。故、聞き驚かして、兵（いくさ）びとを河の邊（べ）に伏（ふ）せ、またその山の上に、垣（きぬがき）を張り帷幕（ひきまく）を立て、詐（いつは）りて舍人（とねり）を王（みこ）にして、露（あら）はに呉床（あぐら）に坐（ま）せ、百官（もものつかさ）が恭敬（ゐやま）ひ往き來する状（さま）、既に王子（みこ）の坐す所の如くして、更にその兄王（あにみこ）の河を渡らむ時の爲に、船檝（ふなかぢ）を具（そな）へ餝（かざ）り、さな葛（かづら）の根を舂（つ）き、其の汁の滑（なめ）を取りて、その船の中の簀椅（すばし）に塗りて、蹈（ふ）むに仆（たふ）るべく設（ま）けて、その王子（みこ）は、布（ぬの）の衣褌（きぬはかま）を服（け）して、既に賎（いや）しき人の形（すがた）になりて、檝（かぢ）を執りて船に立ちたまひき。ここにその兄王、兵士（いくさびと）を隱（かく）し伏（ふ）せ、衣（ころも）の中に鎧（よろひ）を服（き）て、河の邊に到りて、船に乘らむとする時に、その嚴餝（よそひかざ）りし處を望（みさ）けて、弟王（おとみこ）その呉床（あぐら）に坐すと以爲（おも）ひ、都（かつ）て檝を執りて船に立ちませるを知らずて、すなはちその執檝者（かぢとり）に問ひて曰ひけらく、「この山に忿怒（いか）れる大猪ありと傳（つて）に聞けり。吾（われ）その猪を取らむと欲（おも）ふ。もしその猪を獲むや」。といひき。ここに執檝者（かぢとり）、「能（あた）はじ。」と答へて曰ひき。また「何由（なにしか）も。」と問へば、答へて曰ひしく、「時時（よりより）徃徃（ところどころ）に、取らむとすれど得ざりき。ここをもちて能はじと白すなり」といひき。河中に渡り到りし時、その船を傾（かたぶ）けしめて、水の中に墮（おと）し入れき。ここにすなはち浮かび出でて、水の隨（まにま）に流れ下（くだ）りき。すなはち流れて歌ひけらく、 　ちはやぶる　宇治（うぢ）の渡（わたり）に　棹（さを）取（と）りに　速（はや）けむ人し　我が許（もと）に来む とうたひき。ここに河の邊に伏せ隱せし兵（いくさ）びと、彼廂此廂（そなたこなた）一時共（もろとも）に興りて、矢刺して流しき。故、訶和羅（かわら）の前（さき）に到りて沈み入りき。故、鉤（かぎ）をもちてその沈みし處を探れば、その衣の中の甲（よろひ）に繋（か）かりて、かわらと鳴りき。故、其地（そこ）を號（なづ）けて訶和羅の前（さき）と謂ふ。ここにその骨（かばね）を掛（か）き出（いだ）しし時に、弟王（おとみこ）歌ひたまひしく、 　ちはやひと　宇治（うぢ）の渡（わたり）に　渡り瀬（せ）に　立てる　梓弓（あづさゆみ）檀弓（まゆみ）　い伐（き）らむと　心は思（も）へど　い取らむと　心は思（も）へど　本方（もとへ）は　君を思ひ出（で）　末方（すゑへ）は　妹（いも）を思ひ出（で）　苛（いら）なけく　そこに思ひ出（で）　かなしけく　ここに思ひ出　い伐らずぞ来（く）る　梓弓檀弓 とうたひたまひき。故、その大山守の命の骨（かばね）は、那良（なら）山に葬（はぶ）りき。この大山守の命は【土形君・弊岐君・榛原君等の祖】（岩波文庫）」 大山守皇子は、先帝から太子となることもその補佐となることもはずされ、恨みを抱いていたといふ。そこに、兄の一件が重なり、山川林野を掌るといっても、帝位にあらずば実権のないことが明白となり、空位に決着をつける意味でも、太子を討ち取る決意をし、兵を起こした。これを察知した大鷦鷯尊は、菟道（宇治）に引きこもっていた菟道稚郎子に密かに伝へ、菟道稚郎子は一計を案じることが出来た。 大山守皇子の軍勢が宇治川を舟で渡る時、川の真ん中で舟を転覆させ、両岸に伏兵を配し岸に上がれないやうにして、川中で溺れさせやうといふ。太子自らが布袍（あさのみそ：麻の御衣：粗末な着物）を着て楫をとる度子（わたしこ：船頭等）に混じって、大山守皇子の舟に乗り込んだ。川中にくると度子を誂（あとふ：さそう）って、合図を送り、一斉に足踏みをして舟をひっくり返した。 古事記は、宇遲能和紀郎子は山の上に垣をつくり幕を張り、身代わりに舎人を立て座させ、百官を出入りさせ、あたかも自分がそこで指揮を執っているかのごとくみせかけた。大山守命の乗る舟にはそれらしい飾りつけを施し、間違いなくその舟に乗り込ませるべくし、床の簀椅（すばし：簀の子）には滑り易い粘り気のある葛の液を塗りこんでおき、乗船するときには山上に目線を誘ひ、注意をそらせた。自らも兵士を隠し、衣の下に鎧をつけて偵察に出たのであらうか、大山守命に悟られぬやう、山上を見上げて、大猪を退治にやってきたと偽った。大猪（太子）は取れるだらうか？出来ますまい。どうして？いままでも、時々、所々、取らうとして得られなかったでしょう。だから出来ないといふのです。謎めいた言葉を交はし、川中にくると舟を傾けた。足を滑らせた大山守命は川に落ちた、と記している。 流された大山守命が歌った、実際には叫んだ言葉であらうが、古事記によれば、ちはやぶるは勢いある流れの宇治川の枕詞。宇治の渡りの棹さばきの速い者よ、私のところに助けに来い。書紀は、ちはや人、とまず人に呼びかけている。勇ましい人のこと。菟道の渡しで一番棹さばきの速い者よ、”もこ”は対手、相手、仲間、婿からくるが未詳とされる。救いの手をさしのべてくれといふことであらう。書紀は、沈みて死（みう）せぬ。見失ったが、考羅濟（かわらのわたり）に泛（うきい）でた、とするが、古事記は、川岸の兵士の矢を受けて流され、訶和羅（かわら）の前（さき）に到って沈んだ。鉤で探ると鎧に当たり、”かわら”と鳴ったので訶和羅の前となった、といふ。 その屍を見て、菟道稚郎子が歌（うたよみ）して申された。ちはや人、これは菟道(宇治）の枕詞とされるが、大山守命のことではないか？梓弓檀は弓の材とされる木、菟道の渡りの瀬に立っている。瀬に木は生えない、それは大山守命。伐らうと思ひ、取らうと思ふが、本なれば君の思い出が、末なれば妹の思い出が、いらけなくは心にひりひりと刺さる、悲しいと注される、悲しく、愛しく、どうしても伐ることが出来ず、川に落とすことになった、梓弓檀、瀬の近くに生えている木とされるが、瀬に立つ大山守命、我が手で討ち取る機会は目の前にあったが、大山守命自身、その妹（妻）のことをが思い出され、出来なかった。梓弓檀の木はまだ立っているが、大山守命はもうそこには居ない。乃ち那羅山（奈良市法蓮町:地図）に葬る。 このことは菟道稚郎子にとって大きな心の負担となった。帝位を引き継ぐ意志のない自分を何故大山守命は殺そうとしたのか、心ならずも死に追いやることになったこの一件、太子の重さを改めて思ひ知らしめられた。 卽而興宮室於菟道而居之　猶由讓位於大鷦鷯尊　以久不卽皇位　爰皇位空之 卽經三載　時有海人　齎鮮魚之苞苴　獻于菟道宮也　太子令海人曰　我非天皇　乃返之令進難波　大鷦鷯尊亦返　以令獻菟道　於是　海人之苞苴　鯘於往還　更返之　取他鮮魚而獻焉　讓如前日　鮮魚亦鯘　海人苦於屢還　乃棄鮮魚而哭　故諺曰　有海人耶　因己物以泣　其是之綠也　太子曰　我知不可奪兄王之志　豈久生之　煩天下乎　乃自死焉　時大鷦鷯尊　聞太子薨以驚之　從難波馳之　到菟道宮　爰太子薨之經三日　時大鷦鷯尊摽擗𠮧哭　不知所如　乃解髮跨屍　以三呼曰　我弟皇子　乃應時而活　自起以居　爰大鷦鷯尊　語太子曰　悲兮　惜兮　何所以歟自逝之　若死者有知　先帝何謂我乎　乃太子啓兄王曰　天命也　誰能留焉　若有向天皇之御所　具奏兄王聖之　且有讓矣　然聖王聞我死　以急馳遠路　豈得無勞乎　乃進同母妹八田皇女曰　雖不足納采　僅充掖庭之數　乃且伏棺而薨　於是大鷦鷯尊素服　爲之發哀　哭之甚慟　仍葬於菟道山上 既（すで）にして宮室（おほみや）を菟道（うぢ）に興（たて）てて居（ま）します。猶（なほ）位（みくらゐ）を大鷦鷯尊に讓りますに由（よ）りて、久（ひさ）しく即皇位（あまつひつぎしろしめ）さず。爰（ここ）に皇位（きみのくらゐ）空（むな）しくして、既に三載（みとせ）を経（へ）ぬ。時に海人（あま）有りて、鮮魚（あざらけきいを）の苞苴（おほにへ）を齎（も）ちて、菟道宮に献（たてまつ）る。太子（ひつぎのみこ）海人に令（のりごと）して曰（のたま）はく、「我（われ）、天皇（すめらみこと）に非ず」とのたまひて、乃（すなは）ち返（かへ）して難波に進（たてまつ）らしめたまふ。大鷦鷯尊、亦返して、菟道に献らしめたまふ。是（ここ）に、海人の苞苴（おほにへ）、往還（かよふあひだ）に鯘（あざ）れぬ。更に返りて、他（あた）し鮮魚（あざらけきいを）を取りて献る。讓りたまふこと前（さき）の日の如（ごと）し。鮮魚亦鯘れぬ。海人、屢（しばしば）還（かへ）るに苦（たしな）みて、乃ち鮮魚を棄（す）てて哭（な）く。故（かれ）、諺（ことわざ）に曰（い）はく、「海人（あま）なれや、己（おの）が物（もの）から泣（ねな）く」といふは、其れ是（こ）の縁（このもと）なり。太子（ひつぎのみこ）の曰（のたま）はく、「我、兄王（このかみのきみ）の志（みこころざし）を奪ふべからざることを知れり。豈（あに）久しく生きて、天下（あめにした）を煩（わづらは）さむや」とのたまひて、乃ち自（みづか）ら死（をは）りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、太子、薨（かむさ）りたまひぬと聞（きこ）して、驚きて、難波より馳（は）せて、菟道宮に到ります。爰に太子、薨りまして三日（みか）に経（な）りぬ。時に大鷦鷯尊、摽擗（みむねをう）ち𠮧（おら）び哭（な）きたまひて、所如（せむすべ）知らず。乃ち髮（みぐし）を解き屍（かばね）に跨（またが）りて、三たび呼びて曰（のたま）はく、「我（わ）が弟（おと）の皇子（みこ）」とのたまふ。乃ち応時（たちまち）にして活（いき）でたまひぬ。自（みづか）ら起きて居（ま）します。爰に大鷦鷯尊、太子（ひつぎのみこ）に語（かた）りて曰はく、「悲しきかも、惜（を）しきかも。何（なに）の所以（ゆゑ）にか自ら逝（す）ぎます。若（も）し死（をは）りぬる者（ひと）、知（さとり）有らば、先帝（さきのみかど）、我（やつかれ）を何謂（いかがおもほ）さむや」とのたまふ。乃ち太子、兄王（あにのみこ）に啓（まう）して曰（まう）したまはく、「天命（いのちのかぎり）なり。誰（たれ）か能（よ）く留（とど）めむ。若し天皇（ゆづ）りますこと有（ま）しませることを奏（まう）さむ。然るに聖王（ひじりのみこ）、我死（われを）へたりと聞（き）こしめして、遠路（とほきみち）を急ぎ馳（い）でませり。豈労（ねぎら）ひたてまつること無きこと得むや」とまうしたまひて、乃ち同母妹（いろも）八田皇女（やたのひめみこ）を進（たてまつ）りて曰（のたま）はく、「納采（あと）ふるに足（た）らずと雖（いへど）も、僅（わづか）に掖庭（うちつみや）の数（かず）に充（つか）ひたまへ」とのたまふ。乃ち且（また）棺（ひとき）に伏して薨（かむさ）りましぬ。是（ここ）に、大鷦鷯尊、素服（あさのみそ）たてまつりて、発哀（かなし）びたまひて、哭（みね）したまふこと甚（はなは）だ慟（す）ぎたり。仍りて於菟道の山の上に葬（はぶ）りまつる。 古事記は、「ここに大雀の命と宇遲能和紀郎子の二柱、各天の下を讓りたまひし間に、海人（あま）大贄（おほにえ）を貢りき。ここに兄は辭（いな）びて弟に貢らしめ、弟は辭（いな）びて兄に貢らしめて、相い讓りたまひし間に、既に多（あまた）の日を經き。かく相い讓りたまふこと一二時（ひとときふたとき）に非ず。　故、海人既に往（ゆ）き還（き）に疲れて泣きき。故、諺に「海人（あま）や、已が物によりて泣く。」と曰ふ。然るに宇遲能和紀郎子は早く崩りましき。故、大雀の命、天の下治らしめしき。(岩波文庫)」とさらりと記しているが、書紀は、そうではなかった。 菟道稚郎子は宮室を菟道に興（た）てて住みついたが、位は大鷦鷯尊に譲るとして即位されず、空位状態が三年を過ぎたといふ。弊害は政権争ひを招くに止まらなかった。 苞はわらで包んだもの、苴は品物の下に置く草で編んだ敷物、苞苴で贈り物の義、”にへ”は神に供へる魚鳥の類、挨拶の礼物、贈り物のことでもある。齎はもたらすこと。 天皇に貢納せむとして太子に献ると、太子は自分は天皇ではない、位は難波の大鷦鷯尊に譲ったのでそちらへ献れと断る。難波へ献ると、菟道へ献れと追ひ返される。往来していると生ものは腐る、鮮魚を奉らむとした海人は苦（たしなむ：辛苦する）みて、魚を棄（す）てて、哭（な）くことになった。これは海人に限ったことではない、あらゆる場面で混乱が生じていた。 「有海人耶因己物以泣」とは、「海人が居るとでもいふのかい、それなら自分の持ち物で泣くことにならあね」といったところ、この言葉が流行った。太子は大鷦鷯尊の志が変ることのないことを知り、自分の志も固く、このまま自分が生きておれば、天下はますます煩ふ、明晰な太子の行き着いた先は、その原因、己を死（をへ）ることであった。 難波に居た大鷦鷯尊がこの死を聞いて菟道に馳せてきたのが三日後のことであった。大鷦鷯尊のことである、菟道の宮室に手のものを置き変事は時を移さず伝へられていたのだらう。胸をうち、大声をあげて哭す、いささか中国式と思へるが、もはや手の施しやうがなかった。 （死者の魂を呼び戻すために）髪をほどき屍に跨り、大声で何度も「我が弟の皇子」と叫び、招魂をしたところ、太子、活（いきい）でたまひ、自ら起き上がられた。太子に向かひ、「悲兮惜兮何所以歟自逝之若死者有知先帝何謂我：悲しや惜しや、絶句。何ゆえにか？（理由がわからぬ）自ら逝くとは。若し死者に知有らば、先帝が我を何と謂ふか」、大鷦鷯尊は、菟道稚郎子がどうして自ら命を絶ったか、死者に知があるとするなら、(貴方を死なせた)私を先帝は何とおっしゃることであらう（先帝の意志を果たさなかったことをお怒りになるだらう）、と動揺を隠せなかった。 菟道稚郎子は、「天命」といふ。これは中国の「天命」を意識したものであらう。しかし、天といふものの意識がなければ、天命とは何のことか分らない、天命であり、誰にも止められないの義であるが、これでは通じないので”いのちのかぎり”と訓じた。 若し死者に知有りて、天皇のもとに参ることがあるなら、あなたは聖（ひじり）であり、私を帝位につかせやうつかせやうととされたことを申し上げます。それもさることながら、私が死んだと聞き、遠路を馳せてこられたにもかかわらず、何の労うこともできず・・・と大鷦鷯尊を気遣い、同母妹八田皇女（書紀巻10）を納采（あとふ：妻に迎える）にはまいらぬだらうが掖庭（後宮）にでも加えてください、と言い終えると棺に伏して息が絶えた。 大鷦鷯尊は太子に素服（麻の御衣）を献り、「發哀哭之甚慟：哀哭を發すること甚しく慟（どう）す」身をふるわせて哀哭された。太子は、誉田天皇（応神天皇）がとても愛しくされた宮主宅媛と出会った木幡の近く、菟道の山の上（宇治上神社後背の朝日山の山頂に墓碑がある）に葬られたと書紀は記すが、『延喜式』諸陵寮（諸陵式）では「宇治墓」（京都府宇治市菟道丸山：地図）となっている。 天命、聖、哀哭して慟すなども儒家思想を意識している。書紀は菟道稚郎子にそれを投影し、我が国にもさやうな賢人がいたと言ひたかった。時代的には無理な相談であるが。 この三年の空位は菟道と難波に政治の舞台が移り、淀川水系の重要性が増し、奈良盆地の比重が決定的に失はれるといふ事態を招いていた。 元年春正月丁丑朔己卯　大鷦鷯尊卽天皇位　尊皇后曰皇太后　都難波　是謂高津宮　卽宮垣室屋弗堊色也　桷梁柱楹弗藻飾也　茅茨之蓋弗割齊也　此不以私曲之故　留耕績之時者也　初天皇生日　木菟入于産殿　明旦　譽田天皇　喚大臣武内宿禰語之曰　是何瑞也　大臣對言　吉祥也　復當昨日　臣妻産時　鷦鷯入于産屋　是亦異焉　爰天皇曰　今朕之子與大臣之子　同日共産　並有瑞　是天之表焉　以爲　取其鳥名　各相易名子　爲後葉之契也　則取鷦鷯名　以名太子　曰大鷦鷯皇子　取木菟名　號大臣之子　曰木菟宿禰　是平群臣之始祖也　◎是年也　太歲癸酉 元年（はじめのとし）の春正月（むつき）の丁丑（ひのとのうし）の朔（ついたち）己卯（つちのとのうのひ）（AD313.01.03）に、大鷦鷯尊、即天皇位（あまつひつぎしろしめ）す。皇后（きさき）を尊（たふと）びて皇太后（おほきさき）と曰（まう）す。難波（なには）に都をつくる。是を高津宮（たかつのみや）と謂（まう）す。即ち宮垣室屋（みかきおほとの）、堊色（うはぬり）せず。桷（はへき）梁（うつはり）柱（はしら）楹（うだち）、藻飾（ゑかきかざ）らず。茅茨蓋（かやふ）くときに、割斉（かやしりきりととの）へず。此（これ）、私曲（わたくし）の故（ゆゑ）を以て、耕（なりはひ）し績（をう）む時を留（とど）めじとなればなり。初め天皇生（あ）れます日に、木菟（つく）、産殿（うぶとの）に入（とびい）れり。明旦（くるつあした）に、誉田天皇（ほむたのすめらみこと）、大臣（おほおみ）武内宿禰（たけしうちのすくね）を喚（め）して語（かた）りて曰（のたま）はく、「是、何（なに）の瑞（みつ）ぞ」とのたまふ。大臣、対（こた）へて言（まう）さく、「吉祥（よきさが）なり。復（また）昨日（きねふ）、臣（やつかれ）が妻（め）の産（こう）む時に當りて、鷦鷯（さざき）、産屋（うぶや）に入（とびい）れり。是、亦異（あや）し」とまうす。爰に天皇の曰はく、「今朕（わ）が子と大臣の子と、同日（おなじひ）共に産（うま）れたり。並（ならび）に瑞（みつ）有り。是（これ）天（あま）つ表（しるし）なり。以爲（おも）ふに、其の鳥の名を取りて、各（おのおの）相易（あひか）へて子に名（なづ）けて、後葉（のちのよ）の契（しるし）とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて、太子（みこ）に名（なづ）けて、大鷦鷯皇子（おほさざきのみこ）と曰（のたま）へり。木菟（つく）の名を取りて、大臣の子に号（なづ）けて、木菟宿禰（つくのすくね）と曰（い）へり。是、平群臣（へぐりのおみ）が始祖（はじめのおや）なり。◎是年、太歳癸酉（みづのとのとり）。 やっと空位状態が解消されることになった。皇太后となられたのは、母の仲姫。半島との往来が活発化し、先帝も難波に幸して、大隅宮（大阪市東淀川区大桐5丁目14-81：地図）に入られたことがあった（書紀巻10）。大鷦鷯尊はすでに難波に居られ、その地を高津宮とされたとするほうが自然であらう。大阪府立高津高等学（大阪市天王寺区餌差町10-47:地図）の校庭に「高津宮址」の大きな石碑（同校）がある。大阪城址の辺と思われるが宮址は未定と注される。大隅宮は淀川の海への出口にあたりる大隅島にあり、淀川水系を通じ、菟道（宇治）、近江、山背との水運の要の地であった。当時は大阪湾に突き出ていた上町台地上におかれたのが高津宮であり、見通しもよく、広さも十分確保できたのであらう。 すでにみたとおり（書紀巻３）、「古代の頃､東方の生駒山麓に草香津､上町台地の付根に住吉津､上町台地の先端部に難波津があり､いずれも重要な港としての役割を果たしていた。難波堀江が開鑿される前､すなわち弥生時代から古墳時代の前半頃には､瀬戸内海方面からやってきた船は天満砂州の北側を通って草香津に至っていた。 当時､天満砂州の先端の辺りには西北の千里山丘陵の末端から東南に向う吹田砂州が発達しており､それが狭い水路のやうになっていた。そのため､干潮の際には草香津から難波之海に向う､かなり速い流れを生じた。この狭い水路・垂水の瀬戸はその後､川や波が運んできた泥や砂によって埋められ少しずつ浅くなり､北回りの航路が使えなくなった。 そこで五世紀ころ､天満砂州のほぼ中央部､上町台地を北に下りたところに東西方向に難波堀江を開削することになった。堀江が通じた結果､砂州東側の長柄から森の宮付近にあった船着場は､堀江と天満潟の接点付近(現在の地名では中央区高麗橋一丁目付近)と考えられている。 西からやってきた外国船の多くは､外港･江口にまず立ち寄ったのち､難波津に到着した。人々はここで上陸し､難波大道を南に進んで大津道や丹比(たじひ)道を大和に向うとか､小さい船に乗り換えて草香津に至り､あるいは旧淀川や旧大和川をさかのぼったと考えられる。日下雅義著｢平野は語る｣(大巧社)（大阪平野；史跡探訪：３D地図）」といふ位置関係にあり、人や物の流れの中心は、難波に移行していた。 その地に、宮を造営し、垣で囲み、室屋は住む所と政務を執る所であらうか、堊は白く塗る、漆喰をかけるの意と注される、壁は上塗りされぬ質素なものであった。桷（はへき：延へ木）は垂木、梁（うつはり）は棟を支える横木、柱（はしら）、楹（うだち）は梁の上におく短い柱、弗藻飾（ゑかきかざらず）は、文（あや）飾りしない、美しく模様を施し彩色をすることがなかった。茅葺をしても、きちんと末端を切り揃えることもしなかった。私曲とは私事といふこと、三年の空位状態の混乱を意識してのことか、人々が耕し、機織する手をとめることがないやうに、簡素に造営をしたといふ。 大鷦鷯尊の鷦鷯の由来を語るものである。大鷦鷯尊が生まれるときに、木菟（つく：みみづく<語源由来辞典>）が産殿（うぶや）に入（とびい）った。あくる早朝に、誉田天皇が長老の大臣（物知りの）武内宿禰を喚（め）して何の瑞兆かを問ふた。大臣は、吉祥であり、実は、前日自分の妻が産む時にも、鷦鷯（さざき：みそさざえ<佐々木・鷦鷯についての雑考>）が産屋に入（とびい）った。これまた不思議なことと言ふ。誉田天皇は、二人とも同じ日に生まれ、共に瑞兆があるとは、天（あま）つ表（しるし）、その鳥の名を取り、各（おのおの）入れ替へて子に名（なづ）けて、後葉の契（しるし）としやうと、鷦鷯の名を太子に名けて、大鷦鷯皇子とし、木菟の名を取り、大臣の子に号（なづ）けて、木菟宿禰（つくのすくね）とされた。古代中国では鳥は神の使ひとされ、産屋に鳥が入り御子が生まれたとなれば、神から何かを授けられた吉祥とならう。古事記によれば、品陀（ほむた）和氣命も角鹿の假宮に坐す神（今に氣比（けひ）の大神と謂ふ。）と名を交換して品陀（ほむた）のよき名を得たとある（書紀巻9）。氣長足姫尊（神功皇后）の子孫は、どうも名を清める（やまと化する）儀式を必要としたやうに思はれる。 二年春三月辛未朔戊寅　立磐之媛命爲皇后　皇后生大兄去來穗別天皇　住吉仲皇子　瑞齒別天皇　雄朝津間稚子宿禰天皇　又妃日向髮長媛　生大草香皇子　幡梭皇女 二年の春三月（やよひ）の辛未（かのとのひつじ）の朔（ついたち）戊寅（つちのえとらのひ）（AD314.03.08）に、磐之媛命（いはのひめのみこと）を立てて皇后（きさき）とす。皇后、大兄（おほえの）去來穗別天皇（いざほわけのすめらみこと）、住吉仲皇子（すみのえのなかつみこ）、瑞齒別天皇（みつはわけのすめらみこと）、雄朝津間稚子宿禰天皇（をあさづまわくごのすくねのすめらみこと）を生（あ）れませり。又（またの）妃（みめ）日向髮長媛（ひむかのかみながひめ）、大草香皇子（おほくさかのみこ）、幡梭皇女（はたびのひめみこ）を生（う）めり。 古事記に曰く、「大雀（おほさざき）の命（みこと）、難波の高津（たかつ）の宮に坐（ざ）しまして天の下治（し）らしめしき。 この天皇、葛城（かづらき）の曾都毘古（そつびこ）の女、石之日賣（いはのひめ）の命【大后】を娶して生みませる御子、大江（おほえ）の伊邪本和氣（いざほわけ）の命。次に墨江（すみのえ）の中津王。次に蝮（たぢひ）の水齒別（みづはわけ）の命、次に男淺津間若子宿禰（をあさづまわくごのすくね）の命【四柱】。　また上（かみ）に云へる日向の諸縣（もろがた）の君牛諸（うしもろ）の女、髮長比賣を娶して生みませる御子、波多毘能大郎子（はたびのおほいらつこ）、亦の名は大日下（おほくさか）の王。次に波多毘能若郎女（わきいらつめ）、亦の名は長日（ながひ）比賣の命、亦の名は若日下部（わかくさかべ）の命【二柱】。また庶妹（ままいも）八田（やたの）若郎女を娶したまひき。また庶妹宇遲能（うぢの）若郎女を娶したまひき。此の二柱は御子無（な）かりき。この大雀の天皇の御子等（みこたち）、并（あは）せて六王（むはしら）なり【男王五柱、女王一柱】故、伊邪本和氣の命は、天の下治らしめき。次に蝮（たぢひ）の水齒別の命もまた、天の下治らしめき。次に男淺津間若子の宿禰の命もまた、天の下治らしめしき。（岩波文庫）」 日向髮長媛は、国色之秀者、諸県君牛諸井が女（むすめ）（書紀巻10）、誉田天皇（応神天皇）の十三年（AD282）に大鷦鷯尊が武内宿禰を通じて天皇から賜っており、この時には、もう32年は一緒に暮らしていたことになる。八田皇女は菟道稚郎子が亡くなったときに、迎へておられた。それを押しのけて登場したのが、磐之媛命であった。 古事記は、石之日売命を葛城曾都毘古の女（むすめ）と記すが、書紀は、磐之媛命としか述べない。素性を省いた。父は葛城襲津彦、気長足姫尊（神功皇后）の五年（AD205）（書紀巻９）に質、微叱許智伐旱が逃げ帰った新羅を攻めて「桑原・佐糜・高宮・忍海、凡て四の邑の漢人等」を連れ帰った葛城の将軍、武内宿禰の子であった。同六十二年（AD262）（書紀巻９）に新羅を討ったとき、遺失された百済記を引用して「其の美女を受けて、反りて加羅国を伐つ」と寝返り、天皇の怒りを買い、また一説によれば、天皇の赦しが得られないと岩穴で死んだともされ、妙な噂を流された人物でもある。誉田天皇（応神天皇）の十四年（AD283）に「葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経るまでに、襲津彦来ず。（書紀巻10）」といふ事態となり、十六年（AD285）に平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣はし、「弓月の人夫を率て、襲津彦と共に來り（書紀巻10）」とあった。いささかも芳しくない噂のある将軍の女（むすめ）を皇后にされたのは、武内宿禰の子孫であったからといふしかあるまい。それにしても、襲津彦が最初に新羅を攻めてから110年にならんとし、年齢的には超老将軍か老姫となり無理があるが。 大鷦鷯天皇（仁�ｺ天皇）と平群木菟宿禰の関係は先にみた。朝鮮半島を攻めた将軍達（葛城襲津彦・紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰・的戸田宿禰）は、武内宿禰の子供達であった。武内宿禰と甘美内宿禰の争いで一族内に不穏な空気が流れたものの、半島経営においては圧倒的な力を有していた。この縁組はそれを強固なものとすることにあった。難波に宮を造営し、中洲（奈良盆地）は葛城や平群の武内宿禰の子供達の勢力を中心に運営をしたのであらうか。この半島への度重なる出兵はさすがに、民の暮らし向きには負担となった。 四年春二月己未朔甲子　詔群臣曰　朕登高臺　以遠望之　烟氣不起於域中　以爲　百姓旣貧　而家無炊者　朕聞　古聖王之世　人人誦詠�ｺ之音　毎家有康哉之歌　今朕臨億兆　於玆三年　頌音不聆　炊烟轉疎　卽知　五穀不登　百姓窮乏也　邦畿之内　尚有不給者　况乎畿外諸國耶 三月己丑朔己酉　詔曰　自今以後　至于三年　悉除課役　以息百姓之苦　是日始之　黼衣絓履　不弊盡不更爲也　温飯煖羹　不酸��不易也　削心約志　以從事乎無爲　是以　宮垣崩而不造　茅茨壞以不葺　風雨入隙　而沾衣被　星辰漏壞　而露床蓐　是後風雨順時　五穀豐穰　三稔之間　百姓富寛　頌�ｺ旣滿　炊烟亦繁 四年の春二月（きさらぎ）の己未（つちのとのひつじ）の朔（ついたち）甲子（きのえねのひ）（AD316.02.06）に、群臣（まへつきみたち）に詔（みことのり）して曰（のたま）はく、「朕（われ）、高台（たかどの）に登りて、遠（はるか）に望むに、烟気（けぶり）、域（くに）の中（うち）に起（た）たず。以爲（おも）ふに、百姓（おほみたから）既に貧しくして家に炊（いひかし）く者（ひと）無きか。朕（われ）聞（き）けり、古（いにしへ）は聖王（ひじりのきみ）の世（みよ）には、人人（ひとびと）、詠徳之音（ほむるこゑ）を誦（あ）げて、毎家（いへごとに）に康哉之歌（やすらかなりといふうた）有り。今朕、億兆（おほみたから）に臨（のぞ）みて、玆（ここ）に三年（みとせ）になりぬ。頌音（ほむるこゑ）聆（きこ）えず。炊烟（いひかしくけぶり）轉（いよいよ）疎（おろそか）あり。即ち知りぬ。五穀（いつのたなつもの）登（みの）らず。百姓（おほみたから）窮乏（せまりとも）しからむと。邦畿之内（うちつくに）すら、尚給（つ）がざる者（こと）有り、况（いはむ）や畿外諸国（とつくにぐに）をや。」 三月（やよひ）の己丑（つちのとのうし）の朔己酉（つちのとのとりのひ）（03.21）に、詔（おほみことのり）して曰（のたま）はく、「今より以後（のち）、三年（みとせ）に至るまでに、悉（ことごとく）に課役（えつき）を除（や）めて、百姓（おほみたから）の苦（たしなみ）を息（いこ）へよ。」是の日より始めて、黼衣（おほみそ）絓履（おほみくつ）、弊れ盡（やれつ）きずは更に爲（つく）らず。温飯（おほみもの）煖羹（おほみあつもの）、酸（すゆ）り��（くさ）らずは易へず。心（みこころ）を削（と）くし志（みこころざし）を約（せ）めて、従事乎無爲（しづかにおはしま）す。是を以て、宮垣崩（みかきやぶ）るれども造らず。茅茨壞（かやしりくづ）るれども葺（ふ）かず。風雨（かぜあめ）隙（すき）に入りて、衣（おほみそ）被（おほみふすま）を沾（うるほ）す。星辰（ほしのひかり）壊（やれま）より漏りて、床蓐（みゆかみましき）を露（あらは）にす。是の後（のち）、風雨時に順（したが）ひて、五穀（いつのたなもつ）豊穰（ゆたか）なり。三稔（みとせ）の間（ころ）、百姓（おほみたから）富寛（ゆたか）なり。頌徳（ほむるこゑ）既に満ちて、炊烟（いひかしくけぶり）亦繁（しげ）し。 古事記に曰く、「ここに天皇、高（たか）山に登りて、四方（よも）の國を見たまひて詔りたしく、「國の中（なか）に烟（けぶり）發（た）たず、國、皆、貧窮（まづ）し。故、今より三年（みとせ）に至るまで悉に人民（たみ）の課（みつぎ）、役（えだち）を除（ゆる）せ。」とのりたまひき。ここをもちて大殿）破（や）れ壞（こぼ）れて、悉に雨漏れども都（かつ）て修（をさ）め理（つく）ることなし。木咸（うつはもの）をもちて其の漏る雨を受けて、漏らざるぬ處に遷り避（さ）けましき。後に國の中を見たまへば、國に烟（けぶり）滿てり。故、人民（たみ）富めりと爲（おもほし）て、今はと課（みつぎ）、役（えだち）を科（おほ）せき。ここを以ちて百姓（おほみたから）榮えて、役使（えだち）に苦しまず。故、その御世を稱えて、聖帝（ひじりのみかど）の世と謂ふなり。（岩波文庫）」 「朕、高台に登りて以て遠望す。烟気、域中に起らず。以て百姓既に貧しくして家に炊ぐ者無しと爲す。朕聞く、古の聖王の世、人人詠�ｺの音を誦み家毎に康哉之歌有り。今朕、玆に億兆に臨みて三年、頌音聆かず。炊烟、轉疎にして卽ち五穀、登らざるを知る。百姓、窮乏す。邦畿の内、尚、給せざる者有り、况や畿外の諸国においてをや」、古の聖王の世とは、日本（やまと）の聖王の世であるべきだが。神日本磐余彦天皇（神武天皇）から、かやうな言葉が発されることはあるまい。ここで示されるものは中国古代の聖王、堯の世である。 詠徳之音は、文選、「含淳詠�ｺ之声盈耳」によると注される。徳を称える詩（うた）を節をつけてそらんじて声をだして詠じる。そういふ世であるから、康哉之歌、安すらかで楽しい歌がそれぞれの家に聞かれた。億兆とはきわめて多くの数、人民、万民のこと。頌音は頌声と同じ、太平の世をたたえて歌う声、聆は聴く、従ふ、今や太平をたたえて歌う声は聞かれない。 火を用ゐて料理する煙は轉疎、轉は転で”いよいよ”の義とされるが、ぽつぽつとまばらなこと。登熟とは穀物が成熟すること、登は実ること、五穀が実っていないことが分かる。百姓は、本来は、姓をもつ諸々の氏族のこと、姓のない農民ではない、畿内は都の内、百姓が窮乏し、禄を支給されないものが出てきている。畿外の諸国ではもっとひどいこととなっていやう。 「今より以後三年に至りて悉に課役を除き、以て百姓の苦を息ふ。是の日、これを始め、黼衣、絓履、弊れ盡きずば更に爲さず。温飯、煖羹、酸り��せずば易へず。心を削り志を約し、以て從事するや無爲。是を以て宮垣崩れて造らず、茅茨壞るも以て葺かず。風雨隙に入りて衣被を沾らす。星辰壞より漏れて床蓐を露はにす。是の後、風雨時に順ひ、五穀豐穰。三稔の間、百姓富み寛ぐ。頌�ｺ既に滿ち、炊烟亦繁し」。三年、課（調庸）役（身役）を免除した、律令の用語であり編纂時の意識が投影されている。黼衣（ふい）は斧の模様を縫い取りした礼服、絓履は「しけ絹」（玉繭から創った糸（玉糸）で生地を織るもの：松井機業場）で作った履物、当時さやうなものを召されていたとは思はれないが、ほころび、擦り切れるまで使ったといふ。温飯の反は干飯（ほしひ：飯を洗ってぬめりを取り、水気を切っ薄く広げて天日に干す）煖の反は冷、羹は肉と野菜をぐつぐつ煮たもの、酸は飯がすえること、��は餒の混用、あざる、くさること。残り物は食べられる間は召し上がった。削心約志は、六韜、直解の「削治吾心省約吾志是不驕奢也従事乎無為治是治国之倹也」からきており、あれもしたいこれもしたいといふはやる心を削ぎ、その志をしっかりとブレぬやうにとりまとめ、ことに逆らはずなるがままに従ひ、ひたすら回復を待つ。宮垣も崩れたまま、茅茨（ぼう（ぼう）し：かやぶき屋根）が壊れ風雨が吹き込んで衣服が濡れても、穴が開いて隙間から星辰、星のやどり、星座の光が漏れ、床の蓐（しきもの）がすりきれても手をつけない。 じっと自然の巡行の回復を待っていると、巡行は季節に合致し、五穀もたわわに実り、三度の実りを経ると、百姓富みて寛（くつろ）ぎ、徳を称える声が満ち、料理をする煙があちこちから立ち上がっていた。これはまさに儒家の理想とするところであり、我が国にもこのやうな御世があったとしたかった。 周の文王と太公の対話で、太公が言った言葉（六韜、盈虚第二）、「帝堯、天下の王たりし時、金銀珠玉、飾らず。錦繍（きんしゅう）文綺（ぶんき）は衣ず。奇怪珍異は視ず。玩好（がんこう）の器は寶とせず。淫佚（いんいつ）の樂は聽かず。宮垣屋室（きゅうえんおくしつ）は堊（あく）せず。甍桷椽楹（ぼうかくてんえい）は斲（けず）らず。茅茨（ぼうし）は庭に徧（あまね）けども剪らず。鹿裘（ろくきゅう）、寒を禦ぎ、布衣、形を掩ふ。糲粱（れいりょう）の飯、藜𴌃（れいかく）の羹（あつもの）、不役作（えきさ）の故を以て、民の耕織（こうしょく）の時を害せず。心を削り志を約し、事に從ふや無爲。吏、忠正にして法を奉る者、其の位を尊くし、廉潔にして人を愛する者、其の禄を厚くす。民、孝慈有る者はこれを愛敬し、力を農桑に盡す者はこれを慰勉（いべん）し、淑慝（しゅとく）を旌別（せいべつ）して、其の門閭（もんりょ）を表す。心を平けく節を正し、法度を以て邪僞を禁ず。憎む所の者、功有れば必ず賞し、愛する所の者、罪有らば必ず罰す。天下の鰥寡（かんか）、孤獨を存養し、禍亡（かぼう）の家を賑贍（しんせん）す。其の自ら奉ずるや甚だ薄く、其の賦役や甚だ寡し。故に萬民、富樂にして飢寒の色無く、百姓、其の君を戴せること、日月の如く、其の君に親しむこと、父母の如し」から構成されたものとされる。 七年夏四月辛未朔　天皇居臺上　而遠望之　烟氣多起　是日　語皇后曰　朕旣富矣　更無愁焉　皇后對諮　何謂富矣　天皇曰　烟氣滿國　百姓自富歟　皇后且言　宮垣壞而不得脩　殿屋破之衣被露　何謂富乎　天皇曰　其天之立君　是爲百姓　然則君以百姓爲本　是以　古聖王者　一人飢寒　顧之責身　今百姓貧之　則朕貧也　百姓富之　則朕富也　未之有　百姓富之君貧矣　 秋八月己巳朔丁丑　爲大兄去來穗別皇子　定壬生部　亦爲皇后　定葛城部　 九月　諸國悉請之曰　課役並免　旣經三年　因此　以宮殿朽壞　府庫已空　今黔首富饒　而不拾遣　是以　里無鰥寡　家有餘儲　若當此時　非貢税調　以脩理宮室者　懼之　其獲罪于天乎　然猶忍之不聽矣 七年の夏四月（うづき）の辛未（かのとのひつじ）の朔（ついたちのひ）（AD319.04.01）に、天皇（すめらみこと）、台（たかどの）の上に居（ま）しまして、遠（はるか）に望（みのぞ）みたまふに、烟気（けぶり）多（さは）に起（た）つ。是の日に、皇后に語（かた）りて曰（のたま）はく、「朕（われ）、既に富（と）めり。更（さら）に愁（うれへ）無し」とのたまふ。皇后、対（こた）へて諮（まう）したまはく、「何をか富めりと謂（のたま）ふ」とまうしたまふ。天皇の曰（のたま）はく、「烟気、国に満（み）てり。百姓（おほみたから）、自づからに富めるか」とのたまふ。皇后、且（また）言（まう）したまはく、「宮垣（みかき）壊（くづ）れて、脩（をさ）むるを得ず。殿屋（おほとの）破（やぶ）れて、衣（おほみそ）被（おほみふすま）露（つゆにしほ）る。何をか富めりと謂（のたま）ふや」とまうしたまふ。天皇の曰（のたま）はく、「其れ天（あめ）の君を立つるは、是（これ）百姓の爲（ため）になり。然（しか）れば君は百姓を以て本とす。是（ここ）を以て、古の聖王（ひじりのきみ）は、一人（ひとりのひと）も飢（う）ゑ寒（こ）ゆるときには、顧（かへり）みて身（み）を責（せ）む。今百姓貧しきは、朕（われ）が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有（あ）らじ、百姓富みて君貧しといふことは」とのたまふ。 秋八月（はつき）の己巳（つちのとのみ）の朔（ついたち）丁丑（ひのとのうしのひ）（08.09）に、大兄去來穗別皇子（おほえのいざほわけのみこ）の爲（みため）に、壬生部（みぶべ）を定む。亦皇后の爲に、葛城部（かづらきべ）を定む。 九月（ながづき）に、諸国（くにぐに）、悉（ことごとく）に請（まう）して曰（まう）さく、「課役（おほせつかふこと）並（ならび）に免（ゆる）されて、既に三年経（な）りぬ。此（これ）に因りて、宮殿（おほとの）朽（く）ち壊（くづ）れて、府庫（みくら）已（すで）に空（むな）し。今黔首（おほみたから）富み饒（ゆたか）にして、遣拾（おちものひろ）はず。是を以て、里に鰥寡（やもをやもめ）無く、家に余儲（あまりのたくはへ）有り。若し此の時に当りて、税調貢（おほみちからみつきたてまつ）りて、宮室（おほみや）を脩理（つくろ）ふに非（あら）ずば、懼（おそ）るらくは、其れ罪を天（あめ）に獲むか」とまうす。然れども猶（なほ）忍（しの）びて聴（ゆる）したまはず。 古事記に曰く、「この天皇の御世に、大后（おほきさき）石（いは）之日賣の命の御名代（みなしろ）として葛城部（かづらきべ）を定め、また太子（ひつぎのみこ）伊邪本和氣の命の御名代として、壬生部（みぶべ）を定め、また水齒別の命の御名代として、蝮部（たぢひべ）を定め、また大日下の王の御名代として、大日下部（おほくさかべ）を定め、若日下部の王の御名代として若日下部を定めたまひき。　また秦人（はたびと）を役（えだ）ちて茨田（まむだ）の堤及び茨田の三宅（みやけ）を作り、また丸邇（わに）の池、依網（よさみ）の池を作り、また難波の堀江を堀りて海に通はし、また小椅（をばし）の江（え）を堀り、また墨江（すみのえ）の津を定めたひき。（岩波文庫）」 三年後、天皇が皇后と連れ立って高台から四方をご覧になると、煙があちこちから立ちのぼっていた。「旣富矣更無愁焉」既〜、〜焉」は、〜となったので〜するの義、富んでしまったのでもう愁へることはない。皇后は怪訝な顔をして、豊かになった?何が豊かなのですか？と反応された。 天皇は、煙が国に満ちているのは、百姓が自ら豊かになった証と、満足そうに申されると、皇后は、宮垣は壊れて修理できず、殿屋も破れて衣服や建具に結露するといふに、何が豊かになったとおっしゃるの、とうんざりとされた。 「其れ天の君を立つるは、是百姓の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす」とは、荀子、大略、「天の民を生むは君の為に非ず。天の君を立てるは以て民の為なり」などが出典であらうと注される。日本（やまと）ではこの場合天（てん）では通じず、天（あめ）となる。しかし、高天原の天照大神がかやうなことを申されることはない。天命の天である。民を顧みぬ殷の紂王を天は見捨て、民の安寧を取り戻すために天は周の文王、武王に命を下した、とする中国周王朝の革命の天命観。 「古の聖王は、一人も飢ゑ寒ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり」は帝堯の逸話。堯は勧倹質朴の帝で、後世の人から門番のやうな木っ端役人でも堯よりはましな生活をしていたと評される。飢えている人がいれば、わたしのせいで飢えている、寒さにふるえる人がいれば、わたしのせいで着るものがない、罪を犯すものがあれば、そのものを犯罪に追いやったのはわたしだと考える帝（書経　堯-1 ）、とされた。 革命の部分を除いて、万世一系にしてこの思いを皇室に定着させることが書紀の狙いでもあった。「未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは」、大鷦鷯天皇（仁�ｺ天皇）をその理想を求めた最初の天皇にしたかった。その素地を切り開いた人物として、漢文化をすぐさま理解吸収できたとする学識と識見の太子、菟道稚郎子にも格別の光を与えた書紀の編者達であった。 百姓が豊かになったので、「大兄去來穗別皇子に、壬生部を定め、皇后に、葛城部を定めた」といふ。古事記はそれとは異なり、大鷦鷯天皇（仁�ｺ天皇）即位の条で記し、御名代、三宅（屯倉）を定め、池を造成し、堀や江を掘り津を整備する水利、水運、港湾工事を行ひ、そのために百姓疲弊して、三年課役を除いたといふ展開となっている。書紀は百姓に力が回復したところで工事に入ったとした。 課と役、共に免除されて、既に三年。このために、宮殿朽ち壞れて、府庫は已に空になっている。府は元来は会盟等の文書を蔵する所、庫は兵車を蔵する所、”みくら”と訓じられ貢納物の倉とした。黔首（けんしゅ：おほみたから）とは民のこと、冠を着けずに黒髪のままの頭の人々。 「富み饒にして、遣拾はず」とは司馬遷、孔子世家、「（孔子が）国政を與かり聞くこと三月、羔（子羊）豚を粥（ひさ）ぐ者賈（あたひ）を飾らず、男女行く者、塗（みち）を別け、塗、遺を拾はず」にあり、道に落ちたものを拾はず（ねこばばせず）は、徳による政治が民に行き届いていることを表す。里に鰥（やもを：妻を亡くした夫）寡(やもめ：夫を亡くした妻）は居なくなり、家に余（あまり）儲（たくわへ）もできるやうになった。ここまでよくなって、税調（おほみちから）を貢（たてまつ）って、宮室を脩理しないといふなら、罪を天に獲る恐れがある、と民が申し出たが聞き入れず、猶、耐乏生活を続けられた。税調は田祖と”みつき”、”ちから”は力役だが田祖を”たちから”と言うと注される。論語（八佾篇13）、「天に罪を獲れば祷（いの）る所無きなり」とあり、これも儒家思想、日本（やまと）の民が口にする表現ではない。これらの漢文の訓を見るに、それを付した当時の学者が、相当に頭を悩まされたこと、相違あるまい。 十年冬十月　甫科課役　以搆造宮室　於是百姓之不領　而扶老携幼　運材負簣　不問日夜　竭力競作　是以　未經幾時　而宮室悉成　故於今稱聖帝也 十年の冬十月（かむなづき）（AD322.10）に、甫（はじ）めて課役（えつき）を科（おほ）せて、宮室（おほみや）を搆造（つく）る。是（ここ）に、百姓（おほみたから）、領（うなが）されずして、老（おいたる）を扶（たす）け幼（わかき）を携（たづさ）へて、材（き）を運（はこ）び簣（こ）を負（お）ふ。日夜（ひるよる）を問はずして、力を竭（つく）して競（きほ）ひ作る。是を以て、未だ幾時（いくばくのとき）を経（へ）ずして、宮室悉（ふつく）に成りぬ。故（かれ）、今までに聖帝（ひじりのみかど）と称（ほ）めまうす。 甫は苗木で植樹のはじめを云う（字統）。領は頚（えりくび）なり、とされ統領で支配すること、不領は襟首を掴まれてひっ立てられず、強制されずしての義。「於今稱聖帝」、これは古事記も同様で、今といふのは書紀や古事記の編纂時であり、伝説的な故事であったとすべきであらう。 課役は、律令の用語であり、当時のものではないと注される。しかし、百姓、様々な姓を有する氏族へ、後の言葉で云ふ課役に相当するものを軽減したことに変はりあるまい、さもなくば、一体他の如何なる事績でもって聖帝とされたのか不明となる。また、以下、平成の言葉で云へば、公共投資、大土木工事が挙行されるが、課役のごときものなくして、如何にしてその資本と労働力が調達され得やうか？ 卑弥呼が一大率を設けて半島との交易を管理したごとく、交易の益を手中に収めねば、半島への出兵の戦費が如何にして生まれやうか？日本（やまと）にさやうな力をもつ政権があったといふことは、成文、法制化されていなくとも、交易を含めて課役の仕組み、その原理をすでに導入していたとすべきであらう。 十一年夏四月戊寅朔甲午　詔群臣曰　今朕視是國者　郊澤曠遠　而田圃少乏　且河水横逝　以流末不駚　聊逢霖雨　海潮逆上　而巷里乘船　道路亦泥　故群臣共視之　決横源而通海　塞逆流以全田宅　 冬十月に、掘宮北之郊原　引南水以入西海　因以號其水曰堀江　又將防北河之澇　以築茨田堤　是時　有兩處之築而乃壞之難塞　時天皇夢　有�~誨之曰　武藏人強頸　河内人茨田連衫子　【衫子　此莒呂母能古】　二人　以祭於河伯　必獲塞　則覓二人而得之　因以　禱于河�~　爰強頸泣悲之　沒水而死　乃其堤成焉　唯衫子取全匏兩箇　臨于難塞水　乃取兩箇匏　投於水中　請之曰　河�~崇之　以吾爲幣　是以　令吾來也　必欲得我者　沈是匏而不令泛　則吾知眞�~　親入水中　若不得沈匏者　自知僞�~　何徒亡吾身　於是　飄風忽起　引匏沒水　匏轉浪上而不沈　則潝潝汎以遠流　是以　衫子雖不死　而其堤亦成也　是因衫子之幹　其身非亡耳　故時人號其兩處　曰強頸斷間　衫子斷間也　 是歲　新羅人朝貢　則勞於是役 十一年の夏四月（うづき）の戊寅（つちのえとら）の朔（ついたち）甲午（きのえうまのひ）（AD323.04.17）に、群臣（まへつきみたち）に詔（みことのり）して曰（のたま）はく、「今朕（われ）、是（こ）の国を視（み）れば、郊（の）も沢（さは）も曠（ひろ）く遠（とほ）くして、田圃（たはたけ）少く乏（とも）し。且（また）河（かは）の水横（よこさまに）に逝（なが）れて、流末（かはじり）駚（と）からず。聊（いささか）に霖雨（ながめ）に逢（あ）へば、海潮（うしほ）逆上（さかのぼ）りて、巷里（むらさと）船に乗り、道（みち）路（おほぢ）亦（また）泥（うひぢ）になりぬ。故（かれ）、群臣共に視て、横（よこしま）なる源（うなかみ）を決（さか）りて海に通（かよは）せて、逆流（さかふるこみ）を塞ぎて田宅（なりどころ）を全（また）くせよ」とのたまふ。 冬十月に、宮の北の郊原（の）を掘りて、南の水（かは）を引きて西の海に入る。因りて其の水を号（なづ）けて堀江（ほりえ）と曰（い）ふ。又将（まさ）に北の河の澇（こみ）を防（ほそ）かむとして、茨田堤（まむたのつつみ）を築（つ）く。是の時に、両処（ふたところ）の築（つ）かば乃ち壊（くづ）れて塞（ふさ）ぎ難（がた）き有り、時に天皇、夢（みいめ）みたまはく、神有（ま）して誨（をし）へて曰（まう）したまはく、「武藏人（むさしひと）強頸（こはくび）、河内人（かふちひと）茨田連衫子（まむたのむらじころものこ）【衫子、此をば莒呂母能古（ころものこ）と云ふ。】二人（ふたり）を、以て河伯（かはのかみ）に祭らば、必ず塞（ふさ）ぐこと獲（え）てむ」とのたまふ。則ち二人（ふたりのひと）を覓（ま）ぎて得つ。因りて、河神（かはのかみ）に禱（まつ）る。爰（ここ）に強頸（こはくび）、泣（いさ）ち悲（かなし）びて、水（みづ）に沒（い）りて死（し）ぬ。乃（すなは）ち其の堤成りぬ。唯し衫子（ころものこ）のみは全匏（おふしひさこ）両箇（ふたつ）を取りて、塞（せ）き難（がた）き水（かは）に臨む。乃ち両箇の匏（ひさこ）を取りて、水（かは）の中に投（なげい）れて、請（うけ）ひて曰（い）はく、「河神、崇（たた）りて、吾（やつかれ）を以て幣（まひ）とせり。是（ここ）を以て、今吾、来（きた）れり。必や我（やつかれ）を得むと欲（おも）へば、是の匏（ひさこ）を沈めてな泛（うかば）せそ。則ち吾、真（まことの）の神と知りて、親（みづか）ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずば、自（おの）づからに僞（いつはりの）の神と知らむ。何（いかに）ぞ徒（ただ）に吾が身を亡（ほろぼ）さむ」といふ。是（ここ）に、飄風（つむじかぜ）忽（たちまち）に起りて、匏を引きて水に沒（しづ）む。匏、浪（なみ）の上に轉（ま）ひつつ沈まず。則ち潝潝（とくすみやか）に汎（うきをど）りつつ遠く流る。是を以て、衫子、死なずと雖（いへど）も、其の堤亦成りぬ。是（これ）、衫子の幹（いさみ）に因りて、其の身亡びざらくのみ。故（かれ）、時人、其の両処（ふたところ）を号けて、強頸断間（こはくびのたえま）、衫子断間（ころものこのたえま）と曰ふ。 是歳、新羅人（しらきひと）朝貢（みつきたてまつ）る。則ち是の役（えだち）に労（つか）ふ。 郊は説文に、「郊、国を距てること百里、郊と為す。」と注される、”の”野と訓じている。中国では立春、立夏、立秋、立冬に帝はそれぞれ東方、南方、西方、北方の郊で犠牲を捧げて天帝を祀る。澤は水辺の潅木地、水源地が原義であるが、転じて、水の溜まった湿地をいふ。圃は菜を植ゑるところ、畑。野や沢がづっと広がっていて田畑が少なく乏しい。 大和川、淀川の運ぶ土砂が堆積して内海が埋められて出来た土地が眼下に広がっており、大和川流域は高低差がなく蛇行し、内海にゆっくりと注がれてゆく。駚は馬が速く走ること、”とく：疾く”はすぐに、早速の義。霖雨は長雨、川の水かさが増すと海に流れ出ず、横にひろがり、満潮時には海水が逆流してくる。細民の集まる村里は水がつき船が必要となり、普請した道（みち）も路（おほぢ）もドロドロになる。 中州(奈良盆地）からも呼び寄せたのであらうか、群臣共々解決策を求めた。「決横源」を”よこしまなる（ねじれている）うなかみ（海辺）をさく（削）りて”、海に通じる、となる。横の堀を深くして海水を通じるやうにし、逆流の浸水（こみ）を防いで、田や宅地を安全にする、と注されるがそういふ意味か？「決横源」は蛇行して水が溜まったところを開削して内海に水を流す、内海への水路を多くして排水をよくしたといふことではないか。 宮とは上町台地上の高津宮、宮の北の郊原を掘って、そこに南の川、大和川、あるひは、その支流を引き込んで、西海、外海、現在の大阪湾に流した。それを堀江と称した。河流が変化しているので、明らかでない、と注されるが、すでにみたやうに、「五世紀ころ､天満砂州のほぼ中央部､上町台地を北に下りたところに東西方向に難波堀江を開削することになった。堀江が通じた結果､砂州東側の長柄から森の宮付近にあった船着場は､堀江と天満潟の接点付近(現在の地名では中央区高麗橋一丁目付近(地図)と考えられている（大阪平野）」とされやう。内海から外海への排水にとどまらず、港を外海側に設置することを可能にした。 今度は北の川、淀川の澇を防ぐ、澇は大波、長雨が原義、”こみ”はのち濁って”ごみ”と注される、逆流（さかふるこみ）の”こみ”、今度は堤、茨田（まむた）堤を築いた。古事記は、「秦人（はたびと）を役（えだ）ちて茨田（まむだ）の堤及び茨田の三宅（みやけ）を作り」としていた。和名抄、河内国茨田郡茨田郷、地名辞書、枚方から東生郡野田村に至る七里、（枚方市伊加賀：地図から寝屋川市太間：地図）、伊加賀（枚方大橋付近）と太間（淀川新橋）の区間。両処とは、この伊加賀と太間であらうか。だうしたことか、築くと壊れる。 天皇の夢に神が現れ、河伯に武蔵人強頸、河内人茨田連衫子を祭れ、人柱にすれば塞がると申された。河伯は殷代から祭られている黄河の神、牛を犠牲として捧げるが、洪水をふせぐために村の娘を花嫁として飾り立てて捧げた時代もあった。強頸は、天穂日命の後裔、兄多毛比命に始まる武蔵国造家、三世、八背の子、牛頸の弟（日本の苗字7000傑）。何故、選ばれたのか、何故男なのか記されていない。強頸は、泣き悲み、水に沒して死んだ。それで堤は塞がった。 姓氏録、河内皇別に、「茨田宿禰、多朝臣同祖、彦八井耳命之後也、男野現宿禰、仁徳天皇御代、造茨田堤」とあり河内人茨田連衫子の訓、「莒呂母能古（ころものこ）」から、男野現宿禰となったのであらうと注される。彦八井耳命は古事記では神日本磐余彦天皇（神武天皇）の第二子であった。衫子は連の姓（かばね）を持ち、強頸よりも身分が高かったのみではなかった。全匏は大きく丸い匏（跡見群芳譜(農産譜 ユウガオ)）、衫子は持参した両箇（ふたつ）を水の中に投げ入れて、こう請（うけひ）した。 幣（まひ）は神に供える物、犠牲と注される。「河神が崇って、私を幣としたので、今私はここに連れて来られた。私を得やうと思ふなら、この匏を沈めて決して浮かせることなきやうに。沈まば、真の神と認め、自ら入水しやう。しかし、匏を沈めることが出来なくば、僞の神であり、だうしてわが身を亡すことあらうか」かふ言ふと、飄風が忽に起り、匏を水に引き込んで沒めた。ところが、匏は波のまにまに転び沈まず、疾（と）く速（すみ）やかに浮き踊り遠くへ流れ去った。衫子は死ぬどころか、その堤を完成させた。これは、衫子の幹（いさみ：才能、器量）によって、身を亡ぼさなかったといふしかない、とされるが、衫子は、彦八井耳命の加護を得ていたとされるやうだ。 断間（たえま）とは、とだえた間、故に、時人、その両処を号けて、強頸の断間、衫子の断間と云った。強頸の断間は攝津志には、「東生郡絶間在千林村（大阪市旭区千林:地図）」と注されるが、枚方からは随分離れている。 是歳、新羅人が朝貢してきたといふ。この役に労（つか）ふ、とあり、一つの財源であったことが分かる。 十二年秋七月辛未朔癸酉　高麗國貢鐵盾　鐵的 八月庚子朔己酉　饗高麗客於朝　是日集群臣及百寮　令射高麗所獻之鐵盾的　諸人不得射通的　唯的臣祖盾人宿禰　射鐵的而通焉　時高麗客等見之　畏其射之勝巧　共起以拜朝　明日　美盾人宿禰　而賜名曰的戸田宿禰　同日　小泊瀬造祖宿禰臣　賜名曰賢遺臣　【賢遺　此云左舸之能莒里】　 冬十月　掘大溝於山背栗隈縣以潤田　是以　其百姓毎（年豐之 十二年の秋七月（ふみづき）の辛未（かのとのひつじ）の朔（ついたち）癸酉（みづのとのとりのひ）（AD324.07.03）に、高麗国（こまのくに）、鉄（くろがね）の盾、鉄の的（まと）を貢（たてまつ）る。 八月（はつき）の庚子（かのえね）の朔己酉（つちのとのとりのひ）（08.10）に、高麗（こま）の客（まらうと）を朝（みかど）に饗（あ）へたまふ。是（こ）の日に、群臣（まへつきみたち）及び百寮（つかさつかさ）を集（つど）へて、高麗の献（たてまつ）る所の鉄の盾、的を射しむ。諸（もろもろ）の人（ひと）、的を射通（いとほ）すこと得ず。唯（ただ）的臣（いくはのおみ）の祖（おや）盾人宿禰（たたひとのすくね）のみ、鉄の的を射て通しつ。時に高麗の客等見て、其の射（ゆみい）ることの勝巧（すぐ）れたるを畏（おそ）りて、共に起ちて拜朝（みかどをがみ）す。明日（くるつひ）、盾人宿禰を美（ほ）めて、名を賜ひて的戸田宿禰（いくはのとだのすくね）と曰（い）ふ。同日（おなじひ）に、小泊瀬造（をはつせのみやつこ）の祖宿禰臣（すくねのおみ）に、名を賜ひて賢遺臣（さかのこりのおみ）と曰ふ。【賢遺　此れを左舸之能莒里（さかのこり）と云ふ。】 冬十月（かむなづき）に、大溝（おほうなで）を山背（やましろ）の栗隈県（くるくまのあがた）に掘りて田に潤（つ）く。是（ここ）を以て、其の百姓（おほみたから）、毎つね）に年豊（としう）。 高麗国の朝貢は、誉田天皇（応神天皇）の二十八（AD297）年条（書紀巻10）に見えた。同三十七年（AD306.02.01）阿知使主・都加使主が呉に至る道を高麗王に乞ひ、高麗王が、久礼波・久礼志、二人を副へて、導者とした（書紀巻10）ともあった。高麗は高句麗のこと、当時は高麗（こま）と自称していた。 歴史上では、当時の高句麗王は美川王（在位300年−331年）。美川王三年（302年）に兵三万を率ゐて玄菟郡に侵攻、十二年（311年）、兵を送って遼東郡西安平県を略取、十四年（313年）、楽浪郡に侵攻、十五年（314年）、南の帯方郡を侵略、十六年（315年）、玄菟城を攻め破っている（三国史記、国会図書館　91/259：古代朝鮮地図）。 帯方郡が崩壊した時、馬韓は五十余国に分かれた部族社会であり、百済が国の形を整へるのは、近肖古王の時代をまたねばならなかった。すでにみたやうに、広開土王碑によれば、「百残（百済）と新羅は舊く是れ属民。由り来き朝貢す。而して倭、辛卯年（391年）を以て来り、渡海して百残＊＊新羅を破り、以て臣民と為す」とあり、高句麗と百済と日本（やまと）の外交的接触が行われるのは、すくなくとも干支一運(60年）繰り上げる必要があらう。高句麗は広開土王、長壽王の時代に入ると、半島南下政策をとり（地図：毎日頭條）百済を圧迫、百済は倭と通じ対抗、従って高句麗と倭は敵対といふ構図になるが、そう単純な敵対関係ばかりではなかった。高麗から鉄の盾、鉄の的を持参した客が来朝した。 「石上神宮は社宝として神庫に国宝の七枝刀や重要文化財の鉄盾２面を所蔵している。この２面の鉄盾は縦１４３ｃｍｘ横約８４〜６８〜８０ｃｍと縦１３９ｃｍｘ横約７１〜６５〜７７ｃｍの中すぼみの長方形で、矩形または鍵形の厚さ３ｍｍの鉄板を矧ぎ合わせ鋲留している。この２面の鉄盾は、『書紀』仁徳１２年の記事にある鉄盾とされるとの言い伝えがあるが、製作手法や型式の上から否定され、製作年代は古墳時代の5世紀末から6世紀初頭の頃と見られている（帯金式鋲留甲冑の源流は高句麗の鉄盾）」とある。 「高句麗は豊富な金、銀、鉄に恵まれた。特に鉄の生産量は多く、鉄不足に苦しむ契丹や室韋に供給できるほどだった。鉄の加工技術にも優れていた。そのため、各種の効率的な武器が製作され、高句麗の軍事力強化に寄与した。高句麗の人々は技術者を高く評価し、「荷馬車の車輪の神」、「鍛冶屋の神」、「火の神」を崇拝した。このため、多岐にわたる産業が発展し、それが文化の質を向上させ、ひいては近隣諸国の尊敬を勝ち得る強力な遠心力となった（韓国史における高句麗）」ともある。 高句麗では、鉄は農具、武具のみならず、運搬用の引き車の車輪にも用ひられていた。薄い鉄を車輪に巻き付ける技術があったとされる（韓国の歴史）。木製の盾に薄い鉄を貼り付けるなら、戦闘用にも用ゐることはできたであらう。実戦で、日本（やまと）の兵は矢を無力化されていたのかもしれないし、それを作る技術の導入が目的で、招聘をしたのかもしれない。 群臣及び百寮を集めて、その盾、的が披露された。射通すことが出来るものあらば褒美をとらすとでもされ、腕自慢の者も集められたことであらう。その的を射抜いた者が居たと云ふ。その強弓さに驚いて、それまでは客人として接待を受けていた高麗の客が拜朝した。強弓の人は、盾人宿禰、的臣の祖とある。 的臣は姓氏録、山城皇別、河内皇別、和泉皇別に、「武内宿禰男葛城襲津彦命之後也」とあり、葛城襲津彦の子。誉田天皇（応神天皇）の十六年（AD285）に弓月の人夫と共に襲津彦を半島から連れ帰った的戸田宿禰といふ。半島での戦の経験があり、弱点を心得て的を射抜いたのであらう。しかし、これは、干支を一運(60年)繰り下げ264年のことでなくば、285年に的戸田宿禰の名で半島に派遣されることは出来ない。またもやタイムマシン、このことはひとまず置いて、宿禰臣であるが、姓（かばね）を二つ連ねた奇妙なものであり、日本(やまと)固有の氏族とは思はれない。渡来人であっても、相当位の高い人物が居り、なおかつ重要な任務を帯びることができる集団でなくてならない。もらった名が賢遺臣（さかのこりのおみ）。賢明で遣使に向く、外交で役割を果たしたとでもならうか。小泊瀬造の祖、小泊瀬は後の武烈天皇に通じると注される。 山背の栗隈県は、和名抄に、山城国久世郡栗隈郷（宇治市大久保の辺り：地図）と注される。巨椋池の南側にあたる地に大溝を掘り、池の水で田を潤したといふことであらう。しかし、この時代はまだ小さな池で、湿地、沼地の状態で、「奈良時代には、都城の造営のための膨大な資材確保の必要性から、周辺で山林の伐採が広がり、それによって流出した土砂が川の出口をふさぐやうにして堆積したため、池は大きくなった（夢よ咲け巨椋池）」とされ、湿地の排水路とみるべきであらう。後には、車塚古墳を中心とする久津川古墳群（城陽市教育委員会）の地、栗隈氏、秦氏と同じく土木工事の技術をもつ渡来系氏族、の地とされ、一説に、栗隈の栗は高句麗の句麗に通じ、高句麗系とされる。高句麗との関係は対立のみではなかった。巨椋池は桂川、宇治川、木津川を結びつけ淀川を形成する要に位置し、菟道（宇治）を拠点とした菟道稚郎子が目をつけた地ともいへやう。 十三年秋九月　始立茨田屯倉　因定舂米部　 冬十月　造和珥池　◎是月　築横野堤 十三年の秋九月（ながづき）（AD325.09）に、始めて茨田屯倉（まむたのみやけ）を立つ。因りて舂米部（つきしねべ）を定む。 冬十月（かむなづき）に、和珥池（わにのいけ）を造る。◎是の月に、横野堤（よこのつづみ）を築（つ）く。 茨田には堤防を築いたとあった。その背後に屯倉を造った。和名抄では、河内国交野郡三宅郷（大阪府交野市：地図）。河内人茨田連衫子が堤を造ったといふのが書紀の公式見解であった。姓氏録では、多朝臣同祖、彦八井耳命之後とされていたが、姓氏録、河内諸蕃では、「茨田勝、呉国王孫皓の後より出ず、意富加牟枳君なり、大鷦鷯天皇（仁徳と謚す）の御世に居地を茨田邑に賜る。因りて茨田勝と為す」ともある。 誉田天皇（応神天皇）の三十七年（AD306.）に、「呉の王、是に、工女兄媛・弟媛、呉織、穴織、四の婦女を與ふ」とあった。呉系の渡来人と称する人々が居たことになる。孫晧は呉の最後の王、280年に30万の晋軍により建業を落とされ呉は滅びた。古事記では、「秦人（はたびと）を役（えだ）ちて茨田（まむだ）の堤及び茨田の三宅（みやけ）を作り」とあった。秦人は桂川流域を本拠地とした。舂米部とは精米を行う部であるが、舂米とは精米されて貢納される租を意味している。 和珥池については、推古ニ十一年十一月条に注され、本格的にはその時点であるが、この時点で始まっていたといふことか。横野堤は、延喜神名式、渋川郡横野神社、河内志に、「在大地村（大阪市生野区巽大地町)西、今称印色宮」と注される。平成にあっては、横野神社（延喜式内神社）は巽神社（大阪市生野区巽南3-17：地図）に合祀されている。巽神社南の平野川の堤が該当すると注されている。印色宮と通称される池の小祠とあり、平野川流域の湿地であり、堤防工事、排水工事の技術革新がもたらされ、開拓が可能となったのであらう。 十四年冬十一月　爲橋於猪甘津　卽號其處　曰小橋也　 是歲　作大道於京中　自南門直指之　至丹比邑　又掘大溝於感玖　乃引石河水　而潤（つく）上鈴鹿　下鈴鹿　上豐浦　下豐浦　四處郊原　以墾之得四萬餘頃之田　故其處百姓　寛饒之無凶年之患 十四年の冬十一月（しもづき）（AD326.11）に、猪甘津（ゐかひのつ）に橋爲（はしわた）す。即（すなは）ち其の処（ところ）を号（なづ）けて、小橋（をばし）と曰ふ。 是歳（ことし）、大道（おほち）を京（みさと）の中に作る。南の門（みかど）より直（ただ）に指（さ）して、丹比邑（たぢひのむら）に至る。又大溝（おほうなで）を感玖（こむく）に掘る。乃（すなは）ち石河（いしかは）の水（みづ）を引きて、上鈴鹿（かみつすずか）、下鈴鹿（しもつすずか）、上豊浦（かみつとゆら）、下豊浦（しもつとゆら）、四処（よどころ）の郊原（はら）に潤（つ）けて、墾（は）りて四萬餘頃（よよろづあまりしろ）の田を得たり。故（かれ）、其の処の百姓（おほみたから）、寛（ゆたか）に饒（にぎは）ひて、凶年之患無（としえうれへな）し。 猪甘津は大阪市生野区猪飼野町と注されるが、平成では、大阪市東成区東小橋:（地図）、あるいは、600m南に下がった生野区桃谷３丁目の「つるのはし跡」（猪甘津の橋と猪飼野今昔）、旧平野川の東岸とされる。津であり、港に注ぐ川に橋をかけた。古事記は、「小椅（をばし）の江（え）を堀り、また墨江（すみのえ）の津を定めたひき」とした。これは港を拓いたとする。猪飼野とは豚を飼う義で百済系の渡来人が住み着いて育てた地でもある（猪甘津の橋と猪飼野今昔）。 南の門とは高津宮であり、京の中の大道であり、丹比邑あたりまでが京とみなされたことになる。丹比邑は、和名抄の河内国丹比郡（大阪府南河内郡丹比村）、羽曳野市西部、松原市、堺市東部一帯、丹比神社（神奈備：大阪府堺市美原区多治井157-1：地図）の地。奈良盆地をつなぐ竹内街道と交わる交通の要所であった。 感玖の大溝は古市古墳群の古市の大溝、巾8m、深さ4m、長さ数km（近年の発掘調査によれば、築造時期はもう一世紀後とみられる）、仁賢天皇陵（地図）前の上田池(かみのたいけ)、下田池(しものたいけ)が古市の大溝の運河の一部とされる。東に流れる石川の水を引き込んだ。住吉大社神代記に、「難破の高津宮に御字しし天皇に誨（さと）して大神の詔宣はく、「大嶋守を以て紺口溝（こむくのうなで）を掘ら令めよ。」同じく水を流して上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦、四處の郊原に四萬頃の田を開き墾る。既に農田(つくりた)成膏油(こえうるほふ)、故、其の地の百姓、作り喰ふに寛に饒はひの賀在りて、凶年の患無し。是れ大神の本願(みうけひ)なり。石川、針魚河の水を引きて大神の御田に漑（そそ）ぐ縁(ことのもと)は此なり。針魚、この河に通し、今に絶えず、住來す」とある。感玖（こむく）は紺口（こむく）であり、和名抄、河内国石川郡紺口郷（大阪府南河内郡河南町から千早赤坂村付近）かと注されるが、千早川、天満川流域となりはずれる。住吉大社神代記に、「針魚をして溝谷を掘り作らしめむと思召す。大石小石を針魚、掘返して水を流し出でしむ」とあり、針魚は人名。針魚が掘ったのが針魚大溝、「日下氏は、針魚大溝について土地割と小字名によって東除川岸の羽曳野市恵我之荘付近（地図）より、北西方向に掘削し天野水（西除川）を合わせ、依網池を経て住吉堀割に流下したと推論している（17世紀末：我孫子村絵図にみる依網池の水利特性についてー注44：川内眷三）。」とある。これなら、仁賢天皇陵前の上田池、下田池につながる。 上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦は特定されていない。頃（しろ）は中国の地積単位で百畝とされるが、我が国では代（しろ）が用ゐられ、高麗から度量衡単位が入り一代は五尺四方とされ、五十代が一段と注される。それ以前のことであるから頃を用ゐたのかもしれない。元来は広さといふより、収穫で換算され、収穫の少ない所では広くなる。あえて換算すれば、１０段が１町（1.2ﾍｸﾀｰﾙ）、一万代は24ﾍｸﾀｰﾙ、四萬餘頃となれば約100ﾍｸﾀｰﾙ、1km四方の土地といふイメージ。感玖の大溝が数kmとすれば、その大溝周辺に限定されやう。収穫量を記すことは、税を念頭に置いている。これは、灌漑工事として取り上げられているが、「大道を京の中に作る」といふ工事の一貫とみたほうが分り易い。だから橋も架けた。祖庸調とはいかないが、そういふ風なものがなければ、国としての工事は行はれない。 2008.10.27　　修正、更新　2022.10.15
岩倉紙芝居館　古典館　日本書紀　11-1 上田　啓之 .