大鷦鷯天皇　仁�ｺ天皇 十六年秋七月戊寅朔（AD328.07.01）　　》》 十七年（AD329）　　》》 廿二年春正月（AD334.01）　　》》 卅年秋九月乙卯朔乙丑（AD342.09.11）　　》》	卅一年春正月癸丑朔丁卯（AD343.01.15）　　》》 卅五年夏六月（AD347.06）　　》》 卅七年冬十一月甲戍朔乙酉（AD349.11.12）　　》》 卅八年春正月癸酉朔戊寅（AD350.01.06）　　》》 卌年春二月（AD352.02）　　》》
(岩波文庫　日本書紀　坂本太郎･家永三郎･井上光禎･大野晋　校注　を読む。) 本文に使用した漢字テキストについては古代史獺祭からダウンロードさせていただいている。 大鷦鷯天皇（おほさざきのすめらみこと）　仁�ｺ天皇（にんとくてんわう） 十六年秋七月戊寅朔　天皇以宮人桑田玖賀媛　示近習舍人等曰　朕欲愛是婦女　苦皇后之妬　不能合　以經多年　何徒妨其盛年乎　仍以歌問之曰　瀰儺曾虚赴　於瀰能烏苔�悼G　多例揶始儺播務　於是　播磨國造祖速待　獨進之歌曰　瀰箇始報　破利摩波揶摩智　以播區娜輸　伽之古倶等望　阿例揶始儺破務　卽日　以玖賀媛賜速待　明日之夕　速待詣于玖賀媛之家　而玖賀媛不和　乃強近帷内　時玖賀媛曰　妾之寡婦以終年　何能爲君之妻乎　於是　天皇欲遂速待之志　以玖賀媛　副速待　送遣於桑田　則玖賀媛　發病死于道中　故於今有玖賀媛之墓也 十六年の秋七月（ふみづき）の戊寅（つちのえとら）の朔（ついたちのひ）（AD328.07.01）に、天皇（すめらみこと）、宮人（みやのひと）桑田玖賀媛（くはたのくがひめ）を以て、近（ちか）く習（つか）へまつる舍人等（とねりども）に示（み）せたまひて曰（のたま）はく、「朕（われ）、是（こ）の婦女（をみな）を愛（めぐ）まむと欲（す）れども、皇后（きさき）の妬（ねた）みますに苦（よ）りて、合（め）すこと能（あた）はずして、多年経（さはのとしへ）ぬ。何（いかに）ぞ徒（いたづら）に其の盛年（さかりなるとし）を妨（さまた）げむや」とのたまふ。仍りて歌（みうた）を以て問ひて曰（のたま）はく、 　瀰儺曾虚赴（みなそこふ）　於瀰能烏苔�悼G（おみのをとめを）　多例揶始儺播務（たれやしなはむ）　 　水底（みなそこ）ふ　臣（おみ）の少女（をとめ）を　誰養（たれやしな）はむ 是（ここ）に、播磨國造（はりまのくにのみやつこ）の祖（おや）速待（はやまち）、独（ひとり）進みて歌（うたよみ）して曰（まう）さく、 　瀰箇始報（みかしほ）　破利摩波揶摩智（はりまはやまち）　以播區娜輸（いはくだす）　伽之古倶等望（かしこくとも）　 　阿例揶始儺破務（あれやしなはむ） 　みかしほ　播磨速待（はりまはやまち）　岩壊（いはくだ）す　畏（かしこ）くとも　吾養（あれやしな）はむ 即日（そのひ）に、玖賀媛（くがひめ）を以て速待に賜ふ。明日（くるつひ）の夕（よ）、速待、玖賀媛が家（いへ）に詣（いた）りぬ。而（しか）れども玖賀媛和（あまな）はず。乃（すなは）ち強（あながち）に帷内（ねどころ）に近（ちかづ）く。時に玖賀媛の曰（い）はく、「妾（やつこ）、寡婦（やもめ）にして年を終（を）へむ。何（いづくに）ぞ能（よ）く君が妻と爲（な）らむや」といふ。是（ここ）に、天皇、速待が志（こころざし）を遂げむと欲（おもほ）して、玖賀媛を以て、速待に副（そ）へて、桑田（くはた）に送り遣（つかは）す。則（すなは）ち玖賀媛、發病（やまひ）して道中（みちなか）に死（みまか）りぬ。故（かれ）、今までに玖賀媛の墓有り。 古事記に曰く、「その大后石之日賣の命、甚多（いとまね）く嫉妬（ねた）みたまひき。　故、天皇の使はせる妾（みめ）は、宮の中（なか）に得臨（えゆ）かず。言立（ことた）てば、足もあがかに嫉妬（ねた）みたまひき。ここに天皇、吉備の海部（あまべ）の直（あたへ）の女、名は�K日賣、その容姿端正（かたちうるほ）しと聞こしめして、喚上（めさ）げて使ひたまひき。然るにその大后の嫉（ねた）みを畏（かしこ）みて、本（もと）つ國に逃げ下（くだ）りき。天皇、高臺（たかどの）に坐（ま）して、その�K日賣の船出でて海に浮かべるを望み瞻（み）て歌ひたまひしく、 　沖方（おきへ）には　小船（をぶね）連（つら）らく　くろさやの　まさづ子（こ）我妹（わぎも）　國へ下（くだ）らす とうたひたまひき。　故、大后この御歌を聞きて、大（いた）く忿（いか）りまして、人を大浦に遣はして、追い下（おろ）して、歩（かち）より追い去（や）りたまひき。ここに天皇、その�K日賣を戀ひたまひて、大后を欺きて曰（の）りたまひしく、「淡道島を見むと欲（おも）ふ。」とのりたまひて、幸行（い）でましし時、淡道島に坐して、遙（はろばろ）に望（みさ）けて歌ひたまひしく、 　おしてるや　難波の崎よ　出で立ちて　我（わ）が國見れば　淡島（あはしま）　自凝島（おのごろしま）　檳榔（あぢまさ）の　島も見ゆ　放（さけ）つ島見ゆ とうたひたまひき。すなはちその島より傳ひて、吉備の國に幸行（い）でましき。ここに�K日賣、その國の山方（やまがた）の地（ところ）に大坐（おほま）しまさしめて、大御飯（おほみけ）を獻りき。ここに大御羹（おほみあつもの）を煮（に）むとして、其地（そこ）の菘菜（あをな）を採（つ）む時に、天皇その孃子（をとめ）の菘（あをな）採（つ）める處に到りまして歌ひたまひしく、 　山縣（やまがた）に　蒔（ま）ける青菜（あをな）も　吉備人（きびひと）と　共にし摘（つ）めば　楽（たの）しくもあるか とうたひたまひき。天皇上（のぼ）り幸（い）でます時、�K日賣、御歌を獻りて曰（い）ひしく、 　倭方（やまとへに）に　西風（にし）吹き上げて　雲離（ばな）れ　退（そ）き居（を）りとも　我忘れめや といひき。また歌ひけらく、 　倭方（やまとへ）に　行くは誰（た）が夫（つま）　隠水（こもりづ）の　下（した）よ延（は）へつつ　往くは誰が夫 とうたひき（岩波文庫）。」 皇后、磐之媛命、葛城襲津彦の女（むすめ）は、古事記も嫉妬深いとする。宮中の妾（みめ）が天皇に自分と違ふ目立つやうなことを言ふと、足を踏み鳴らして黙らせたやうである。皇后に聖人君子のやうな道を説き、耐乏生活を強ひた大鷦鷯天皇が好まれたものは、徳ばかりではなかった。 古事記によれば、容姿端麗な�K日賣（くろひめ）を吉備より召し上げられた。ところが、皇后の嫉妬を畏れてお帰りになるといふ。天皇がその船出を惜しんで詠まれた歌を聞やいなや、皇后は墨江の津のある大浦に人を遣はし、一行を下船させ、徒歩で去らせたといふ。天皇は淡路島を国見に出ると偽って�K日賣を追ひ、皇后には難波の岬を出ると、淡路島、淤能碁呂嶋（おのごろしま）、檳榔の木のある島や離れ島がみえる、などと如何にも国見を行っているかのごとく歌を残して、ひそかに吉備に上陸された。吉備の山では�K日賣が食事を用意しやうとして、嬢子（をとめ）に菘菜（あをな）を採（つ）ませていた。 天皇は嬢子と一緒に楽しく菘を摘まれた。天皇が�K日賣のもとに登り来られると、�K日賣は歌を二首詠まれた。やまとの方に西風が吹いて、雲が離れ離れになるやうに、分かたれてここに居るとしても、私は忘れない。やまとの方にゆくのはどなたの夫（つま）、隠水の下（隠し妻のところ）に、よ延（は）へつつ（ひそかに通って）、帰ってゆくのはどなたの夫かしら。これはもう中国の聖人、堯、舜、折角導入した儒家の世界はどこへやら、日本（やまと）の万葉の王と妃の恋と政略の世界。吉備の女（むすめ）ともなれば、誉田天皇（応神天皇）と兄媛のロマンス（書紀巻10）の再現、これはロマンスにとどまらぬ、吉備との政略、瀬戸内海航路をがっちり押さえることは半島との関係を考へれば必須であったらう。 書紀は、�K日賣の話しをとばして、宮人、桑田の玖賀媛（くがひめ）の話しを取り上げた。桑田は和名抄の丹波国桑田郡（京都府亀岡市：旧桑田郡）と注される。豪族が宮に女（むすめ）を入れたのであらう。男の場合は、舎人（とねり）、”とね”が近習をあらはす。大鷦鷯天皇が舎人等に、玖賀媛を愛（めぐ）まんとしたが、皇后が妬み、床を共にすることが出来ず、長年が過ぎ去り、その盛りを妨げてしまった、と嘆き歌を詠まれた。”みなそこふ：水底経”であれば、表に出ずづっと日陰にいた、”みなそそく：水注ぐ”が訛ったとするなら、まだ瑞々しい。臣（おみ）の姓の豪族の女（むすめ）である。誰か妻にしてくれる者は居ないか？これは難題であった。しかし、一人、名乗り出た者がいた。 速待（はやまち）、その子孫が播磨国造となるのであるが、その決断でこの名がついたのであらうか。”みかしほ”は”みいかしほ”の約、”み”が尊称、厳潮、大潮と注され、播磨にかかる。大潮の播磨でも速待と言はれた私が、岩をも砕くほどに畏れ多きことながら、面倒をみましょう、と申し出た。天皇は即刻、速待に玖賀媛を賜はった。翌夕に速待は玖賀媛の処へ夜這ひを決行した。和（あまなふ）は互いに好意を持つことと注される。結果は不和。強引に帷内（ねどころ）に近づいたが、見知らぬ若者に媛は訳を問ふも、心はゆるされなかった。玖賀媛が天皇を想はれる気持ちは、天皇の想像とは違った。 天皇がさうおほせなら、私は夫（つま）をなくした寡婦（やもめ）と心に言ひ聞かせ、もう一人のままで一生を終へたひ、だうして、いまさら人妻になれましょう、とこばまれた。ところが、天皇は無理な願ひを受け容れた速待の心意気に引くもならず、速待に玖賀媛を桑田へ送らせ、道中に二人が和（あまな）ふことを期待された。しかし、結果は最悪となった、媛は京を離るれば離るるほど心萎へ患ひ、そのまま道中でみまかられた。 古事記のごとく、あっけらかんとした展開ではない。二人の男女を深く傷つけたこの一件は、生かされることになるのであらうか？編纂当時までその墓が確認されたといふ。 十七年　新羅不朝貢　 秋九月　遣的臣祖砥田宿禰　小泊瀬造祖賢遺臣　而問闕貢之事　於是　新羅人懼之乃貢獻　調絹一千四百六十匹　及種々雜物　并八十艘 十七年（AD329）に、新羅（しらき）、朝貢（みつきたてまつ）らず。 秋九月（ながづき）（AD329.09）に、的臣（いくはのおみ）の祖（おや）砥田宿禰（とだのすくね）、小泊瀬造（をはつせのみやつこ）の祖賢遺臣（さかのこりのおみ）を遣（つかはす）して、闕貢（みつきたてまつ）らぬ事を問はしむ。是に、新羅人懼（かしこま）りて、乃ち貢獻る。調絹（つきのきぬ）一千四百六十匹（ちむらあまりよほむらあまりむそむら）、及び種々雜物（くさはひもの）、并（あは）せて八十艘（やそふな）。 干支を操作せず、新羅本紀第二・第十六代、訖解、尼師今（在位 ＡＤ310-356）（国会図書館　20/259）をみれば、「三年（ＡＤ312） 春三月に倭国王、使を遣はして子に婚を求めしめ、以て阿湌の急利の女（むすめ）を送る。」「三十五年（ＡＤ344） 春二月に倭国、使を遣はして婚を請ふ、辭すに女（むすめ）既に出でて嫁ぐを以てす」とある。また、「三十六年（ＡＤ345） 二月に倭王書を移し交を絶つ」「三十七年（ＡＤ346） 倭の兵、猝（にはか）に風島に至り、邊戸を抄（かす）め掠（うば）ふ」ともある。どちらの年代も確かなものではないとされるが、双方に交流があり、日本（やまと）が新羅に貴族の女（むすめ）や高級品を求め、また、派兵をしていたことは知られやう。 砥田宿禰は的戸田宿禰と同じ、武人。賢遺臣は先にみたごとく、通辞、外交担当であらう。闕貢は貢を欠くこと。調絹は「調」として奉る絹のこと。八十艘は常套句、多くの船の義。おそらく、かなりの兵を引き連れて圧力をかけたものであらう。この経費を捻出する意味でも相応しい貢物を持ち帰る必要があった。といふより、日本（やまと）の豪族にあっても、鉄製農具や道具、武具はもとより、織物や装飾品、家具などの需要が旺盛となり、河内政権は交易における益をしっかり手中におさめんとしていたのであらう。 廿二年春正月　天皇語皇后曰　納八田皇女將爲妃　時皇后不聽　爰天皇歌　以乞於皇后曰　于磨臂苔能　多菟屢虚等太氐　于磋由豆流　多曳麼菟餓務珥　奈羅陪氐毛餓望　皇后答歌曰　虚呂望虚曾　赴多弊茂豫耆　瑳用廼虚烏　那羅陪務耆瀰破　介辭古耆呂介茂　天皇又歌曰　於辭氐屢　那珥破能瑳耆能　那羅弭破莽　那羅陪務苔虚層　曾能古破阿利鷄梅　皇后答歌曰　那菟務始能　譬務始能虚呂望　赴多弊耆氐　介區瀰夜嚢利破　阿珥豫區望阿羅儒　天皇又歌曰　阿佐豆磨能　避介能烏瑳介烏　介多那耆珥　瀰致喩區茂能茂　多遇譬氐序豫枳　皇后遂謂不聽　故默之亦不答言 二十二年の春正月（むつき）（AD334.01）に、天皇（すめらみこと）、皇后（きさき）に語（かた）りて曰（のたま）はく、「八田皇女（やたのひめみこ）を納（めしい）れて将（まさ）に妃（みめ）にせむ」とのたまふ。時に皇后聴（うけゆる）さず。爰（ここ）に天皇、歌（みうたよみ）して、皇后に乞（こ）ひて曰（のたま）はく、 　于磨臂苔能（うまひとの）　多菟屢虚等太氐（たつることだて）　于磋由豆流（うさゆづる）　多曳麼菟餓務珥（たえまつがむに）　奈羅陪氐毛餓望（ならべてもがも） 　貴人（うまひと）の　立（た）つる言立（ことだて）　儲弦（うさゆづる）　絶（た）え間（ま）継（つ）がむに　並（なら）べてもがも 皇后、答歌（かへしうた）して曰（まう）したまはく、 　虚呂望虚曾（ころもこそ）　赴多弊茂豫耆（ふたへもよき）　瑳用廼虚烏（さよどこを）　那羅陪務耆瀰破（ならべむきみは）　介辭古耆呂介茂（かしこきろかも） 　衣（ころも）こそ　二重（ふたへ）も良（よ）き　さ夜床（よどこ）を　並（なら）べむ君（きみ）は　畏（かしこ）きろかも 天皇、又歌（みうたよみ）して曰（のたま）はく、 　於辭氐屢（おしてる）　那珥破能瑳耆能（なにはのさきの）　那羅弭破莽（ならびはま）　那羅陪務苔虚層（ならべむとこそ）　曾能古破阿利鷄梅（そのこはありけめ） 　押照（おして）る　難波（なには）の埼（さき）の　並（なら）び浜（はま）　並（なら）べむとこそ　その子（こ）は有（あ）りけめ 皇后、答歌して曰したまはく、 　那菟務始能（なつむしの）　譬務始能虚呂望（ひむしのころも）　赴多弊耆氐（ふたへきて）　介區瀰夜嚢利破（かくみやだりは）　阿珥豫區望阿羅儒（あによくもあらず） 　夏蚕（なつむし）の　蚕（ひむし）の衣（ころも）　二重（ふたへ）著（き）て　囲（かく）み宿（やだ）りは　豈（あに）良（よ）くもあらず 天皇、又歌して曰はく、 　阿佐豆磨能（あさづまの）　避介能烏瑳介烏（ひかのをさかを）　介多那耆珥（かたなきに）　瀰致喩區茂能茂（みちゆくものも）　多遇譬氐序豫枳（たぐひてぞよき） 　朝嬬（あさづま）の　避介（ひか）の小坂（をさか）を　片泣（かたな）きに　道行（みちゆ）く者（もの）も　偶（たぐ）ひてぞ良（よ）き 皇后、遂（つひ）に聴（ゆる）さじと謂（おもほ）して、故（かれ）、默（もだ）して、亦答言（かへりごとまう）したまはず。 古事記に曰く、「これより後時（のち）、大后、豐樂（とよのあかり）したまはむとして、御綱柏（みつながしは）を採りに、木（き）の國に幸行（い）でましし間に、天皇、八田の若郎女と婚（まぐは）ひしたまひき。ここに大后、御綱柏を御船に積み盈（み）てて、還り幸（い）でます時、水取司（もひとりのつかさ）に驅使（つか）はえし吉備の國の兒島の仕丁（よぼろ）、これ己が國に退（まか）るに、難波の大渡に、後（おく）れたる倉人女（くらびとめ）の船に遇ひき。すなはち語りて云ひしく、「天皇は、此日（このごろ）八田の若郎女と婚ひしたまひて、晝夜（ひるよる）戲れ遊びますを、もし大后はこの事聞こしめさねかも、　靜かに遊び幸行（い）でます」といひき。ここにその倉人女、この語る言（こと）を聞きて、すなはち御船に追ひ近づきて、状（ありさま）を具（つぶ）さに、仕丁（よぼろ）の言（こと）の如く白しき。ここに大后、大（いた）く恨み怒りまして、その御船に載（の）せし御綱柏は、悉に海に投げ棄（う）てたまひき。故、其地（そこ）を號（なづ）けて御津前（みつのさき）と謂ふ。すなはち宮に入りまさずて、その御船を引き避（よ）きて、堀江に泝（さかのぼ）り河の隨（まにま）に山代に上り幸（い）でましき。この時歌ひたまひしく、 　つぎねふや　山代河（やましろがは）を　河上（かはのぼ）り　我（わ）が上（のぼ）れば　河の邊（べ）に　生（お）ひ立（た）てる　烏草樹（さしぶ）を　烏草樹（さしぶ）の木　其（し）が下（した）に　生（お）ひ立（た）てる　葉廣（はびろ）　五百箇（ゆつ）眞椿（まつばき）　其（し）が花の　照り坐（いま）し　其（し）が葉の　廣（ひろ）り坐（いま）すは　大君ろかも とうたひたまひき。すなはち山代より迴（めぐ）りて、那良（なら）の山口に到りまして歌ひたまひしく、 　つぎねふや　山代河を　宮上り　我が上れば　あをによし　奈良を過ぎ　小楯（をだて）　倭（やまと）を過ぎ　我（わ）が見が欲（ほ）し國は　葛城高宮（かづらきたかみや）　吾家（わぎへ）のあたり とうたひきたまひき。かく歌ひて還りたまひて、暫（しば）し筒木（つつき）の韓人（からびと）、名は奴理能美（ぬりのみ）の家に入りましき。 天皇、大后、山代より幸（い）でましぬと聞こしめして、舎人（とねり）名は鳥山と謂ふ人を使はして、御歌を送りて曰りたまひしく、 　山代に　い及（し）け鳥山　い及（し）けい及（し）け　吾（あ）が愛妻（はしづめ）に　い及（し）き遇（あ）はむかも とのりたまひき。また續（つ）ぎて丸邇（わに）の臣（おみ）口子（くちこ）を遣はして歌ひたまひしく、 　御諸（みもろ）の　その高城（たかき）なる　大猪子（おほゐこ）が原　大猪子が　腹にある　肝向（きもむか）ふ　心をだにか　相思はずあらむ とうたひたまひき。また歌ひたまひしく、 　つぎねふ　山代女（やましろめ）の　木鍬（こくは）持ち　打ちし大根（おほね）　根白（ねじろ）の　白腕（しろただむき）　枕（ま）かずけばこそ　知らずとも言はめ とうたひたまひき。故、この口子の臣、この御歌を白す時、大（いた）く雨ふりき。ここにその雨を避（よ）けず、前つ殿戸（とのど）に參伏（まゐ）せば、違（たが）ひて後（しり）つ戸に出でたまひ、後（しり）つ殿戸に參伏せば、違ひて前つ戸に出でたまひき。ここに匍匐（は）ひ進み赴きて、庭中（にはなか）に跪（ひざまづ）きし時、水潦（にはたづみ）腰に至りき。その臣（おみ）、紅（あか）き紐（ひも）著けし青摺（あをずり）の衣（きぬ）を服（き）たり。故、水潦紅き紐に拂（ふ）れて、青皆紅き色に變（な）りき。ここに口子の臣の妹（いも）、口日賣（くちひめ）、大后に仕え奉れり。故、この口日賣歌ひけらく、 　山代の　筒木（つつき）の宮に　物申（ものまを）す　吾（あ）が兄（せ）の君は　涙ぐましも とうたひき。ここに大后、その所由（ゆゑ）を問ひたまひし時、答へて白しけらく、「僕（あ）が兄（せ）口子の臣なり。」とまをしき。 ここに口子の臣、またその妹口比賣、また奴理能美、三人（みたり）議（はか）りて、天皇に奏（まを）さしめて云（い）ひしく、「大后の幸行（い）でましし所以（ゆゑ）は、奴理能美の養（か）へる虫、一度（ひとたび）は匐（は）ふ虫になり、一度は鼓（つづみ）になり、一度は飛ぶ鳥になりて、三色（みくさ）に變（かは）る奇（あや）しき虫あり。この虫を看行（みそな）はしに入りまししにこそ。更に異心（ことごころ）無し。」といひき。かく奏（まを）す時に、天皇詔りたまひしく、「然らば吾（あれ）も奇異（あや）しと思ふ。故、見に行かむと欲（おも）ふ。」とのりたまひて、大宮より上り幸行（い）でまして、奴理能美の家に入りましし時、その奴理能美、己が養（か）へる三種（みくさ）の虫を大后に獻りき。ここに天皇、その大后の坐せる殿戸に御立（みた）ちたまひて、歌ひたまひしく、 　つぎねふ　山代女（やましろめ）の　木鍬（こくは）持ち　打ちし大根（おほね）　さわさわに　汝（な）がいへせこそ　打ち渡す　やがはえなす　来入（きい）り参来（まゐく）れ とうたひたまひき。この天皇と大后と歌ひたまひし六（む）歌は、志都（しつ）歌の歌返（うたひかへ）しなり。 天皇、八田の若郎女を戀ひたひて、御歌を賜ひ遣はしたまひき。その歌に曰（い）ひしく、 　八田（やた）の　一本菅（ひともとすげ）は　子持たず　立ちか荒れなむ　あたら菅原（すがはら）　言（こと）をこそ　菅原（すげはら）と言はめ　あたら清（すが）し女（め） といひき。ここに八田の若郎女、答へて歌ひたまひしく 　八田（やた）の　一本菅（ひともとすげ）は　獨居（ひとりを）りとも　大君し　よしと聞こさば　獨居りとも とうたひたまひき。故、八田の若郎女の御名代（みなしろ）として、八田部を定めたまひき（岩波文庫）。」 まず、古事記のいふ所を聞いてみやう。皇后が宴会で酒を盛る柏の葉（御綱柏）を採るために紀の国に出かけると、これ幸ひと、天皇は八田の若郎女と婚（まぐは）ひされた。皇后が御綱柏を満載して難波の大渡に帰ってくると、宮中で水を扱う官吏として出仕している吉備の兒島の仕丁（人夫）から噂を聞いた倉人女（蔵司に仕える女）が、皇后の船を追ひ、このことを告げた。 皇后は激怒、満載していた御綱柏を海に投げ捨て、港に入らず、堀江から山代に向かはれた。山代河は木津川のこと、淀川を上り、木津川あたりまでこられ、歌を詠まれた。 岸辺に烏草樹（シャクヤク科の常緑灌木）が生い茂り、その下に五百箇(ゆつ)真椿が咲いている。五百箇(ゆつ)は斎津、神聖なこと。真椿でもあり天皇のこと。この椿のやうに、私に隠れたところで、照りはえ、広葉を広げる大君とは。八田の若郎女と日夜戯れておられる、こんどといふこんどは、だうしてくれやう、と恨み心乱れ、山代から那良（なら）の山の口（ふもと）に来て、また、歌を詠まれた。 山代を上がると、（心に想うのは）那良を越へ、倭（やまと）を越へ、葛城高宮　故郷の吾家のあたり（もう故郷にかえりたい）。山麓には、筒木（つつき）の韓人（からびと）、奴理能美（ぬりのみ）の家があり、そこに身を寄せられた。これを聴いた天皇は、舎人の鳥山を遣はし、歌を託された。 山代に急げ鳥山、急げ急げ、吾愛妻に急いで遭っておくれ。続いて、天皇は、丸邇（わに）の臣（おみ）口子（くちこ）を筒木に遣はし、歌を託された。御諸の高城の大猪子が原(神霊宿る皇后の故郷の原）の大猪子（皇后）の肝向ふ心（肝臓に向かい合っている心：肝と心）に　もうお互いを想う気持ちはないとでもいふか。更に、山代女が木鍬を持ち、打ちし大根の根白のごとき白腕を枕（ま）かなかったといふなら、知らないとでも言へやうものを、と続けられた。 口子がその歌を伝へやうと戸口に来ると、大雨が降ってきた。その雨の中、表の殿戸に伏せると、皇后は裏の戸から出られ、裏戸に伏せると表戸から出られた。這って庭に回り、ひざまづくと水が腰まで浸した。口子は青い衣服に紅の紐を着けていたが、その色が落ちて衣服は紅色に染まってしまった。実はそこには、皇后に仕える口子の妹の口日売がおり、みかねて、歌詠みした。 山代の筒木の宮に物申す吾兄の君は　涙ぐましも。口日売が妹とわかり、皇后は口子から天皇の伝言を聞かれたことであらう。口子、口日売、奴理能美の三人は、相談をして、皇后が筒木の奴理能美を訪ねたのは、奴理能美の養う虫、一度は這い、一度は鼓（繭：まゆ）になり、一度は飛ぶ鳥（蛾）に変わる奇（あや）しき虫（蚕）を見たくて来られたもので、異心はないと天皇に報告することにした。 報告を受けた天皇は、それは不思議なもの、見てみたいと、すぐさま難波をたち、奴理能美の家に幸された。そのとき、奴理能美が蚕を皇后に献ると、天皇が歌を詠まれた。「山代女が木鍬を持ち、打ちし大根」までは一緒だが、ここでは天皇が自らを打たれた大根といふ。さわさわに（騒々しくも）　汝がいへせこそ（あなたが言うものだから）　打ち渡す（見渡す）　やがはえ（弥木栄あるいは八桑枝の転訛とされる）なす　来入り参来れ。家の周りに繁る桑の葉のごとく、行幸の形で大勢の者を伴ったが、あなたを迎へるために私も、伴の者達もやってきたのです、とまるく収めてしまった。 一方、何の説明もなく、八田の若郎女に詠まれた歌が記される。八田の一本菅は、とはじまる。菅（すげ）でも、一人静（季節の花　３００）といふは吉野御前とか眉掃草などと命名され、美女が連想されるやうである。一本が冠されており、「子持たず」に通じる。夫も子もなくば、立ちか荒れなむ（立ったままで朽ち果てる）　あたら菅原（惜しい菅、原は軽く添えた語）　言をこそ（言葉の上では）　菅原（すげはら）と言はめ　あたら（惜しいほどに）清（すが）し女（め） 　どうやら八田に追われ一人で暮らすことになったとみえる。八田の一本菅は、「獨居（ひとりを）りとも　大君し　よしと聞こさば　獨居りとも 」と現状を受け容れて、歌を返しておられ、天皇にできることは、八田の若郎女の御名代（みなしろ）として、八田部を定めることくらいしかなかった。 片や権勢ある一族を父に持つ”さわさわ女”、片や太子でありながら禅譲をした聡明な兄を持つ”すがし女”、いつの世にもある取り合せである。古事記はこう伝えるが書紀では様相がひどく異なる。 天皇は、皇后に八田皇女を妃にしやうと欲（おも）ふと切り出された。20年ほど前、菟道稚郎子の臨終に際して、「納采（あとふ：妻に迎える）にはまいらぬだらうが掖庭（後宮）にでも加えてください。」と八田皇女のことを託されていたはずであるが、今更ここで妃にする、は理解に苦しむ・・・皇后は聴（ゆる）さず、天皇は歌（うたよみ）して、皇后に乞ふた。 「貴人の　立つる言立（誓いを立てること）　儲弦（うさゆづる：替えの弦）　絶え間継がむに（切れたときに使う予備）　並べてもかも」だから並べておいてもいいでしょう、当時の常套句といふ説もあるが、予備の弦の妃とはいかがなものか。皇后は、「衣こそ　二重も良き　さ夜床（よどこ）を　並べむ君は　畏（かしこ）きろかも」畏は畏（おそ）れること。衣と寝所を同じにするなぞ、何と恐ろしい神経の持ち主かと、お断りになられた。 更に、天皇は、「照る（難波の枕詞）　難波の埼の　並び浜　並べむとこそ　その子（八田皇女）は有りけめ」難波の岬の向こうにある並び浜のやうに、(二人を）並べることを　その子は納得している、と天皇はもう話が出来ていると、譲歩を求めるも、皇后は、「夏蚕の　蚕の衣　二重著て（夏に蚕は繭を二重に囲むけれど）　（人の寝所の）囲み宿りは　豈良くもあらず」とご同意されなかった。 天皇は更に、「朝嬬（葛城の朝嬬、皇后の故郷）の　避介（場所不明）の小坂を　片泣き（一人で泣く）に　道行く者も　偶ひて（対になって）ぞ良き」。もし、貴方が故郷に泣き帰るやうなことがあるとすれば、一人よりは二人の方がいいでしょう、とたたみかけると、皇后はゆるしがたく、黙して、歌を返されることもなかった。 古事記とは異なり、陰鬱な展開となっている。かの仁徳は、いづくにありや。 卅年秋九月乙卯朔乙丑　皇后遊行紀國　到熊野岬　卽取其處之御綱葉　【葉　此云箇始婆】　而還　於是　天皇伺皇后不在　而娶八田皇女　納於宮中　時皇后到難波濟　聞天皇合八田皇女　而大恨之　則其所採御綱葉投於海　而不著岸　故時人號散葉之海　曰葉濟也　爰天皇不知皇后忿不著岸　親幸大津　待皇后之船　而歌曰　那珥波譬苔　須儒赴泥苔羅齊　許辭那豆瀰　曾能赴尼苔羅齊　於朋瀰赴泥苔禮　時皇后不泊于大津　更引之泝江　自山背廻而向倭　明日　天皇遣舍人鳥山　令還皇后　乃歌之曰　夜莽之呂珥　伊辭鷄苔利夜莽　伊辭鷄之鷄　阿餓茂赴菟摩珥　伊辭枳阿波牟伽茂　皇后不還猶行之　至山背河而歌曰　菟藝泥赴　揶莽之呂餓波烏　箇破能朋利　涴餓能朋例麼　箇波區莽珥　多知瑳介踰屢　毛々多羅儒　揶素麼能紀破　於朋耆瀰呂介茂　卽越那羅山　望葛城歌之曰　菟藝泥赴　揶莽之呂餓波烏　濔揶能朋利　和餓能朋例麼　阿烏珥豫辭　儺羅烏輸疑　烏陀氐　夜莽苔烏輸疑　和餓瀰餓朋辭區珥波　箇豆羅紀多伽瀰揶　和藝弊能阿多利　更還山背　興宮室於筒城岡南　而居之　 三十年の秋九月（ながづき）の乙卯（きのとのう）朔（ついたち）乙丑（きのとのうしのひ）（AD342.09.11）に、皇后、紀国（きのくに）に遊行（い）でまして、熊野岬（くまののみさき）に到りて、即（すなは）ち其の処（ところ）の御綱葉（みつなかしは）【葉　此れをば箇始婆（かしは）と云ふ】を取りて還（かへ）りませり。是（ここ）に、天皇、皇后の不在（ましまさぬとき）を伺（うかが）ひて、八田皇女（やたのひめみこ）を娶（め）して、宮（おほみや）の中（うち）に納（めしい）れたまふ。時に皇后、難波済（なにはのわたり）に到りて、天皇、八田皇女を合（め）しつと聞（きこ）しめして、大（おほ）きに恨みたまふ。則（すなは）ち其の採（と）れる御綱葉（みつなかしは）を海（うみ）に投（なげい）れて、著岸（とま）りたまはず。故（かれ）、時人、葉散（かしはちら）しし海を号（なづ）けて、葉済（かしはのわたり）と曰（い）ふ。爰（ここ）に天皇、皇后の忿（いか）りて著岸りたまはぬことを知（しろ）しめさず。親（みづか）ら大津（おほつ）に幸（いでま）して、皇后の船（みふね）を待ちたまふ。而（しかう）して歌（みうたよみ）して曰（のたま）はく、 　那珥波譬苔（なにはひと）　須儒赴泥苔羅齊（すずふねとらす）　許辭那豆瀰（こしなづみ）　曾能赴尼苔羅齊（そのふねとらせ）　於朋瀰赴泥苔禮（おほみふねとれ） 　難波人（なにはひと）　鈴船（すずふね）取（と）らせ　腰煩（こしなづ）み　その船（ふね）取（と）らせ　大御船（おほみふね）取（と）れ 時に皇后、大津に泊りたまはずして、更に引きて泝江（かはよりさかのぼ）りて、山背（やｍしろ）より廻（めぐ）りて倭（やまと）に向（い）でます。明日（くるつひ）、天皇、舍人（とねり）鳥山（とりやま）を遣（つかは）して、皇后を還（かへ）したてまつらしむ。乃ち歌（みうたよみ）して曰（のたま）はく、 　夜莽之呂珥（やましろに）　伊辭鷄苔利夜莽（いしけとりやま）　伊辭鷄之鷄（いしけしけ）　阿餓茂赴菟摩珥（あがもふつまに）　伊辭枳阿波牟伽茂（いしきあはむかも） 　山背（やましろ）に　い及（し）け鳥山（とりやま）　い及（し）け及（し）け　吾（あ）が思（も）ふ妻（つま）に　い及（し）け会（あ）はむかも 皇后、還りたまはずして猶（なほ）行（い）でます。山背河（やましろがは）に至りまして歌（みうたよみ）して曰（のたま）はく、 　菟藝泥赴（つぎねふ）　揶莽之呂餓波烏（やましろがはを）　箇破能朋利（かはのぼり）　涴餓能朋例麼（わがのぼれば）　箇波區莽珥（かはくまに）　多知瑳介踰屢（たちさかゆる）　毛々多羅儒（ももたらず）　揶素麼能紀破（やそはのきは）　於朋耆瀰呂介茂（おほきみろかも） 　つぎねふ　山背河（やましろがは）を　河（かは）泝（のぼ）り　我（わ）が泝（のぼ）れば　河隈（かはくま）に　立（た）ち栄（さか）ゆる　百（もも）足（た）らず　八十葉（やそは）の木（き）は　大君（おほきみ）ろかも　 即ち那羅山を越えて、葛城（かづらき）を望（みのぞ）みて歌して曰はく、 　菟藝泥赴（つぎねふ）　揶莽之呂餓波烏（やましろがはを）　濔揶能朋利（みやのぼり）　和餓能朋例麼（わがのぼれば）　阿烏珥豫辭（あをによし）　儺羅烏輸疑（ならをすぎ）　烏陀氐（をだて）　夜莽苔烏輸疑（やまとをすぎ）　和餓瀰餓朋辭區珥波（わがみがほしくには）　箇豆羅紀多伽瀰揶（かづらきたかみや）　和藝弊能阿多利（わぎへのあたり） 　つぎねふ　山背河（やましろがは）を　宮（みや）泝（のぼ）り　我（わ）が泝（のぼ）れば　青丹（あをに）よし　那羅（なら）を過（す）ぎ　小楯（をだて）　倭（やまと）を過（す）ぎ　我（わ）が見（み）が欲（ほ）し国（くに）は　葛城高宮（かづらきたかみや）　我家（わぎへ）のあたり 更に山背に還りて、宮室（おほとの）を筒城岡（つつきのをか）の南に興（つく）りて居（ま）します。 古事記とは異なり、それから八年以上の歳月を経て、書紀は、皇后が紀国の熊野岬に御綱葉を取りにゆかれたとする。神事の酒器に用ゐるものといふ。御綱柏はウコギ科オオタニワタリあるいはカクレミノ（跡見群芳譜）、串本の潮御崎神社の辺りに群生するマルバチシャノキ（跡見群芳譜）ともある。 書紀が熊野岬としたことは、だういふ意味を持つのであらう。御綱柏が必要ならば、貢納させる、誰かを派遣することで事足りる。しかし、皇后にとっては、その神事を行ふに、自らの手で採取した御綱葉を必要とし、それも熊野のものでならねばならぬといふ思ひがあり、そこまでなさることはない、と反対する声を押し切りなされたことであったらう。 難波から船で熊野へ行くことは、磐余彦尊（�~武天皇）が辿られた歴史を心に呼び起こすことになる。熊野の�~邑では暴風に遇はれ、それをおさめるために、稻飯命は劒を拔きて海に入り、鋤持�~となられ、三毛入野命は浪をけって常世郷にゆかれた（書紀巻３）。また、熊野には伊奘冉尊が葬られたとされる紀伊国熊野之有馬村がある。根の国への入口とも考へられ、顕界と幽界の境界でもあった。磐之媛命は、その熊野の霊験ある御綱柏を積んで難波に戻ってこられた。 ところが、八年前に終わったはずであったといふに、その間に天皇は「八田皇女を娶して、宮の中に納れ」て、「合八田皇女」睦合っておられた。それを聞いた磐之媛命は、恨み、御綱葉を海に投（なげい）れてしまはれた。謹みて採取されたものは、謹みて使はれるべきもの、その意味が失せてしまった。 大鷦鷯天皇（仁�ｺ天皇）が半島を経由する漢文化に傾斜してゆかれること自体は悪くはない。自らの原点、先人の築かれた恩恵をないがしろにする人でもなかったはず。ところが桑田玖賀媛の一件以来、妃のことからだうも見境ひが失はれ、大事な神事の器をなんと思し召されておられやうか。さやうなことで大切なことが失はれてゆく。磐之媛命は難波の津に上陸する気は失せ、難波の宮から新たにできた大道もうとましく、そのまま船で淀川へと向はれた。 一方天皇はそんなこととはつゆ知らず、港に迎へに出て歌を詠まれた。鈴の音は元来、神を呼ぶ音、邪霊を祓ふ音。皇后は鈴を吊るした船に乗っておられた。「難波人よ鈴船をひけ。腰まで水につかってその船をひけ。大御船をひけ」、と注される。おそらくは、鈴船が見つからないので、早くみつけて曳いてこい、一番大きな船だ、といふことであらう。磐之媛命は、すでに山背から倭に向っておられた。翌日、天皇は、舍人鳥山にあとを追はせて、歌を託された。山背に　急げ鳥山　急げ急げ　吾が思ふ妻に　急ぎ会っておくれ。一刻も早く会ひたいので帰へられよ、とばかりに。 磐之媛命は帰へらうとされなかった。山背河、淀川を遡り、木津川についておられた。愕然とした心のなかに、八田皇女の兄、皇位を禅譲しつづけて自ら命を絶たれた菟道稚郎子の姿がよぎりはじめた。中国の文化にも通じておられたが、ご先祖のこと、今の世の移り変はりをどう考へておられたのだらふか？太子なら今の私の心が通じたのではないか？と菟道（宇治）に足が向いたのかもしれない。 ”つぎねふ”は次から次と嶺（ね）が経（ふ：つづく）で、山背にかかる詞（ことば）。百足らずは、百に満たない、で八十にかかる詞。「山背河を遡ってくると、河の曲がり角に立って栄えている、葉の繁った樹は、立派で我が大君にそっくりであるな」と注される。「百には足らないが多くの女を娶る天皇」とみるむきもある。河を遡ると、河が曲がるたびに　大君のことで　心が揺れる。このままでいいのだらうか。確かにあちらもこちも栄えている。しかし、百には足らない八十葉の木、それが大君なのかもしれない。そのことを申し上げて通じるかしら？次から次とあらはれる嶺を見上げて物を想うに、突如として、故郷の嶺が思ひ起こされた。 那羅山を越えて、葛城を望むと、神霊宿る葛城の高宮が見えた。故郷の神々と先祖の加護を願はずにはおれなかった。つぎねふ（枕詞）山背河を　難波の宮を遡り　心のままに遡ると　（心は）青丹よし（枕詞）奈良を過ぎ　小楯（枕詞：楯を伏したやうな山に囲まれた）倭を過ぎ　我が見が欲し国は　葛城高宮　我家のあたり。ところが、葛城にお帰りになられたかといへば、そうでなく、山背に戻り、宮室を筒城岡の南に建てて住まれたといふ。 和名抄の山城国綴喜郡綴喜郷（京都府京田辺市普賢寺付近）とされ、同志社大学の校内敷地（地図）に筒城宮跡石碑があるが、場所は特定されていない。古事記は、筒木の韓人、奴理能美の家としていた。近江から難波といふ淀川水系の物流が盛んになり、奈良と通じるこの一帯は土木技術を持つ渡来人により開発が進んだのであらう。しかし、磐之媛命が、何故、葛城でもなく、難波でもなく、筒城に住み着かれることになったのであらうか？ 冬十月甲申朔　遣的臣祖口持臣喚皇后　【一云　和珥臣祖口子臣】　爰口持臣至筒城宮　雖謁皇后　而默之不答　時口持臣　沾雪雨　以經日夜　伏于皇后殿前而不避　於是　口持臣之妹國依媛　仕于皇后　適是時　侍皇后之側　見其兄沾雨　而流涕之歌曰　揶莽辭呂能　菟々紀能瀰揶珥　茂能莽烏輸　和餓齊烏瀰例麼　那瀰多遇摩辭茂　時皇后謂國依媛曰　何爾泣之　對言　今伏庭請謁者　妾兄也　沾雨不避　猶伏將謁　是以　泣悲耳　時皇后謂之曰　告汝兄令速還　吾遂不返焉　口持則返之　復奏于天皇　 冬十月（かむなづき）の甲申（きのえさる）の朔（ついたちのひ）（AD342.10.01）に、的臣（いくはのおみ）が祖（おや）口持臣（くちもちのおみ）を遣（つかは）して皇后（きさき）を喚（め）したまふ。【一（ある）に云（い）はく、和珥臣（わにのおみ）の祖（おや）口子臣（くちこのおみ）といふ】。爰（ここ）に、口持臣、筒城宮に至りて、皇后に謁（まう）すと雖も、默（もだ）をりて答（かへりごとまう）したまはず。時に口持臣、雪雨（あめ）に沾（ぬ）れつつ、日夜（ひるよる）を経（へ）て、皇后の殿（おほとの）の前に伏して避（まかりさ）らず、是（ここ）に、口持臣が妹（いも）国依媛（くによりひめ）、皇后に仕へまつる。是（こ）の時に適（あた）りて、皇后の側（みもと）に侍（さぶら）ふ。其の兄雨に沾るるを見て、流涕（かなし）びて歌（うたよみ）して曰（い）はく、 　揶莽辭呂能（やましろの）　菟々紀能瀰揶珥（つつきのみやに）　茂能莽烏輸（ものまをす）　和餓齊烏瀰例麼（わがせをみれば）　那瀰多遇摩辭茂（なみたぐましも） 　山背（やましろ）の　筒城宮（つつきのみや）に　物申（ものまを）す　我（わ）が兄（せ）を見（み）れば　涙（なみた）ぐましも 時に皇后、国依媛（くによりひめ）に謂（かた）りて曰（のたま）はく、「何（なに）ぞ爾（いまし）が泣（いさ）つる」とのたまふ。対（こた）へて言（まう）さく、「今庭（みには）に伏して請謁（ものまう）すは、妾（やつこ）が兄（せ）なり。雨に沾れつつ避（まかりさ）らず。猶伏して謁（まう）さむとす。是（ここ）を以て、泣（いさ）ち悲（かなし）ぶらくのみ」とまうす。時に皇后、謂（かた）りて曰（のたま）はく、「汝（いまし）が兄（せ）に告げて速（すみやか）に還（かへ）らしめよ。吾は遂（つひ）に返（かへ）らじ」とのたまふ。口持、則（すなは）ち返りて、天皇（すめらみこと）に復奏（かへりことまう）す。 口持臣、口子臣は他に見えず。使として口上を伝へることから付けられた伝説的な名前、古事記の口比売も伝説的な名前と注される。的臣の祖となれば、砥田宿禰つまり的戸田宿禰と同じ系統であり、葛城襲津彦の子孫、磐之媛命と同系となる。妹の国依媛も同じとなる。 和珥臣の祖となれば、話は全く別の展開となる。和珥臣の遠祖、彦国葺が武埴安彦を山背で討って以来、和珥氏は山背から近江へ進出するやうになり、菟道（宇治）の近くの木幡で、誉田天皇（応神天皇）は、六年（AD275）に、和珥臣の祖、日触使主の女（むすめ）、宮主宅媛と出会い、菟道稚郎子、八田皇女を生むことになった（書紀巻10）。筒城は和珥氏の勢力圏にある。古事記では、口子と口比売の二人はこの子孫とならう。 さふいふ関係の人間を使者にすれば、ますますこじれることになる。姓氏類別大観（日本の苗字7000傑）によれば、口子、国依媛を宮主宅媛（宮道宅媛）の弟、妹している。八田皇女の叔父、叔母となり、叔父が使者、叔母が磐之媛命に仕へているといふことになり、また、70年弱の年月を経ており、大変な老爺の叔父が雪雨の中を地に伏せ寒さに震え、老婆の叔母が悲しみにむせぶとなり、奇怪な様相となる。書紀では超絶老人でありながら、若者のごとく登場してくることがよくあるが・・・ここでは、書紀は、的臣系とし、これを打ち消したが、国依媛といふ名が妙にまぎらはしさを残すことになった。この故事がもとで姓氏類別大観が口子と国依媛を宮道宅媛の弟、妹にもぐり込ませたといふこともあり得やうが・・・本文に戻らう。 冬十月で雪まじりの冷たい雨の中、天皇の命を受けた皇后と同族の使者を、皇后が黙して放置したといふは、その拒否のすざまじさを表す。沾は、ここでは、雨やで衣服がへばりつくやうにぬれること。濡れ鼠であり、雪まじりであれば、震える寒さであったらう。国依媛といふ的臣の祖の妹にあたる媛が、兄のその姿を目の前にして、涙まじりに、「・・・兄を見れば、涙ぐましくもある」、と歌を詠んだ。事情を聴いた皇后は、「私は決して返らない」、「兄を即刻帰らしてあげなさい」、と国依媛に告げ、口持は天皇にその旨を報告することができた。 十一月甲寅朔庚申　天皇浮江幸山背　時桑枝沿水而流之　天皇視桑枝歌之曰　菟怒瑳破赴　以破能臂謎餓　飫朋呂伽珥　枳許瑳怒　于羅愚破能紀　豫屢麻志士枳　箇破能區莽愚莽　豫呂朋譬喩玖伽茂　于羅愚破能紀　明日　乘輿詣于筒城宮　喚皇后　皇后不肯參見　時天皇歌曰　菟藝泥赴　揶摩之呂謎能　許久波茂知　于智辭於朋泥　佐和佐和珥　儺餓伊弊劑虚曾　于知和多須　椰餓波曳儺須　企以利摩韋區例　亦歌曰　菟藝泥赴　夜莽之呂謎能　許玖波茂知　于智辭於朋泥　泥士漏能　辭漏多娜武枳　摩箇儒鷄麼虚曾　辭羅儒等茂伊波梅　時皇后令奏言　陛下納八田皇女爲妃　其不欲副皇女而爲后　遂不奉見　乃車駕還宮　天皇　於是　恨皇后大忿　而猶有戀思 十一月（しもつき）の甲寅（きのえとら）の朔（ついたち）庚申（かのえさるのひ）（AD342.11.07）に、天皇、浮江（かはふね）より山背（やましろ）に幸（いでま）す。時に桑（くは）の枝（き）、水（みづ）に沿（したが）ひて流る。天皇、桑の枝を視（みそなは）して歌（みうたよみ）して曰（のたま）はく、 　菟怒瑳破赴（つのさはふ）　以破能臂謎餓（いはのひめが）　飫朋呂伽珥（おほろかに）　枳許瑳怒（きこさぬ）　于羅愚破能紀（うらぐはのき）　豫屢麻志士枳（よるましじき）　箇破能區莽愚莽（かはのくまぐま）　豫呂朋譬喩玖伽茂（よろほひゆくかも）　于羅愚破能紀（うらぐはのき） 　つのさはふ　磐之媛（いはのひめ）が　おほろかに　聞（きこ）さぬ　末桑（うらぐは）の木（き）　寄（よ）るましじき　河（かは）の隈隈（くまくま）　寄（よ）ろほひ行（ゆ）くかも　末桑（うらぐは）の木（き） 明日（くるつひ）、乗輿（すめらみこと）、筒城宮（つつきのみや）に詣（いた）りて、皇后（きさき）を喚（め）したまふ。皇后、参見（まゐあ）ひたまはず。時に天皇、歌して曰はく、 　菟藝泥赴（つぎねふ）　揶摩之呂謎能（やましろめの）　許久波茂知（こくはもち）　于智辭於朋泥（うちしおほね）　佐和佐和珥（さわさわに）　儺餓伊弊劑虚曾（ながいへせこそ）　于知和多須（うちわたす）　椰餓波曳儺須（やがはえなす）　企以利摩韋區例（きいりまゐくれ） 　つぎねふ　山背女（やましろめ）の　木鍬持（こくはも）ち　打（う）ちし大根（おほね）　さわさわに　汝（な）が言（い）へせこそ　打渡（うちわた）す　弥木栄（やがはえ）なす　来入（きい）り参来（まゐく）れ 亦歌して曰はく、 　菟藝泥赴（つぎねふ）　夜莽之呂謎能（やましろめの）　許玖波茂知（こくはもち）　于智辭於朋泥（うちしおほね）　泥士漏能（ねじろの）　辭漏多娜武枳（しろただむき）　摩箇儒鷄麼虚曾（まかずけばこそ）　辭羅儒等茂伊波梅（しらずともいはむ） 　つぎねふ　山背女（やましろめ）の　木鍬持（こくはも）ち　打（う）ちし大根（おほね）　根白（ねじろ）の　白腕（しろただむき）　纏（ま）かずけばこそ　知（し）らずとも言（い）はめ 時に皇后（きさき）、奏（まう）さしめたまひて言（まう）したまはく、「陛下（きみ）、八田皇女（やたのひめみこ）を納（めしい）れて妃（みめ）としたまふ。其れ皇女（ひめみこ）に副（そ）ひて后（きさき）たらまく欲（ほり）せじ」とまうしたまひて、遂に奉見（まゐあ）ひたまはず。乃ち車駕（すめらみこと）、宮に還りたまふ。天皇、是に、皇后の大（おほ）きに忿（いか）りたまふことを恨（うら）みたまふ。而（しかう）して猶（なほ）し恋い（しの）び思（おもほ）すこと有（ま）す。 浮江（かはふね）は難波から船で淀川を遡ったのであらう、”つのさはふ”は蔓(つの）沢山（さは）這（はふ）の約、磐にかかる枕詞、と注される。”おほろかに”は”おぼろかに”に同じ、下に打ち消しの語を伴い、おろそか、なおざりなこと。”うらぐは”は”うらごひ（心恋）”をかけるもの、「末桑の木があちこちの岸にぶつかりながら流れるのを見て、磐之媛と八田皇女との間に動揺する自分の気持ちと通うもののあるのを感じての歌であろう」、と注される。 さて、桑の木が流れてきた。蚕を飼っている。この地は、綺戸邊（かにはたとべ）、綺は蟹機（かにはた）とあり、機織の技術をもつ渡来人の地でもあり、和珥氏を豊かにするものであったらう。磐之媛は(私）をおろそかにして（私の言ふことを）聞かうともしない。末桑の木とは、ここでは、天皇のこと。流れるだけで(媛）に寄り付くことができない。河の曲がり角で寄りつくかと思へど、寄りつかない。そんな末桑の木。 一向にらちはあかぬ、天皇は意を決して、筒城宮に自ら乗り込んで皇后を喚（め）された。ところが、皇后は出てこやうとされなかった。天皇は媛に聞こへよと歌を詠まれた。「山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その大根の葉のざわつくやうに、ざわざわと。あれこれあなたが言われるからこそ。見渡す向こうにある木の枝の茂るように、大勢人を引きつれて、あなたに逢いに来たものを」、と注される。山背女が木の鍬をかかえて打ちし大根のごとく、あなたもさわさわ言ふからこそ、見渡すばかりの桑畑に茂る木々のごとく、私もまいり、多くの供の者も従がへてきた。この地の大根がよほど立派であったとみえる。打たれた大根とは天皇、随分とあなたには打ち据へられたけれど、大勢を率いて迎へにきたのだから。 更に、歌を詠まれた。山背女が木の鍬をかかえて耕した大根のごとく、みずみずしいばかりの根白の　あなたの白い腕が　私の首を巻かなかったといふなら　知らないと言へやうけれど。磐之媛を堅い磐じゃなく、みずみずしい大根にみたてて、あなたを筒城からひきぬき、難波でその白い腕に巻かれたい、と想ひを打（う）た（ぶつけら）れた。 しかし、皇后は人を介して伝言をされるのみで、姿をお見せにならなかった。陛下を”きみ”と訓じているが、夫としての大君でなく、一段身を低くして謙り伝言された。「陛下は、八田皇女を妃としてお召しになり、私を皇女の副の后になされやうとのことでしょう」と。並べられ、添へられることにはあくまでも背をむけられた。天皇は、磐之媛の磐のごとく堅い心を恨みつつ、難波に長い行列を率いてお還りになった。天皇の心はそれでも磐之媛から離れることはなかったといふ。何故磐之媛は天皇に心を閉ざして、和珥氏の地に留まられたのか？古事記とは180度異なる顛末を書紀は伝へる。 大鷦鷯天皇（仁�ｺ天皇）と菟道稚郎子の関係を対立する権力闘争であったとする説がある。むしろ。この論調の方が支配的ですらある。大鷦鷯尊が実は菟道稚郎子を殺し、以降、和珥氏と敵対関係になったとする。これを融和するために、八田皇女を妃とする政略結婚が図られたが、磐之媛は反対であった。しかし、後には自ら敵地に乗り込んで、収拾をはからうとしたとする。 菟道稚郎子の基盤である和珥氏は、半島進出の元祖、気長足姫尊（�~功皇后）の里であり、大鷦鷯天皇の半島政策に反するものはない。磐之媛の父、葛城襲津彦など武内宿禰一族は軍事的に半島進出を支えており、和珥氏に対立するものでもない。武内宿禰は紀国の出身であり、紀ノ川流域から、淀川流域への移住もみられ、両者は補完する立場にある。書紀としては、菟道稚郎子は臨終に際して、妹の八田皇女を大鷦鷯尊の後宮にいれるやう遺言したことになっている。 磐之媛は葛城襲津彦の女（むすめ）、半島で妙な噂を流され、武内宿禰の子とはいへ、問題のある人物であり、その娘を皇后に選ぶことに尋常ならざるところがある。にもかかはらず、皇后としたところに疑問がある。もともと無理があったところに、大鷦鷯天皇との間がこじれると、難波宮には戻れない。ところで、気長足姫尊（�~功皇后）六十二年（AD262）条に、「天皇、沙至比跪を遣して、新羅を討たしめたまふ。而るを新羅の美女を納りて、捨てて討たず。反りて我が國を滅す。兄弟、人民、皆爲流沈へぬ。憂へ思ふにえ任びず。故、以て來り啓す。」天皇、大きに怒りたまひて、即ち木羅斤資を遣して、兵衆を領ゐて加羅に來集ひて、其の社稷を復したまふといふ。一に云く、沙至比跪、天皇の怒を知りて、不敢へて公に還らず。乃ち自ら竄伏る。其の妹、皇宮に幸ること有り。比跪、密に使人を遣して、天皇の怒解けぬるや不やを間はしむ。妹、乃ち夢に託げて言さく、「今夜の夢に沙至比跪を見たり」といふ。天皇、大きに怒りて云はく、「比跪、何ぞ敢へて來る」とのたなふ。妹、皇言を以て報す。比跪、兔れざることを知りて、石穴に入りて死ぬといふ（書紀巻9）」とあり、これが葛城襲津彦について半島でささやかれていた噂であった。この妹が磐之媛ともされる。時代的に全く合はないが、このあたりは干支が操作されており、何でもありの状態、この話によれば、葛城襲津彦が問題を起こす前に磐之媛は皇宮に入っており、天皇と親しい関係にあったとも想定できる。また、葛城襲津彦は失脚をしている、あるいは半島で隠棲しているとも想定され、磐之媛が葛城に帰りたくとも帰れない状況にあり、和珥氏を頼ったとも考へられる。憶測が憶測を呼ぶ、磐之媛の行動である。 磐之媛への断ち難い想ひが記されると同時に、八田皇女に対する執念のやうなしつこさが浮き上がってくる。八田皇女は、即位の時点、磐之媛以前から宮に入っており、二十ニ年に妃となることを断られ、三十年に磐之媛の不在中に娶られ、この騒動に至る。大鷦鷯天皇（仁�ｺ天皇）は、さうまでしても、和珥氏との関係を尊重しやうとされた。しかし、武内宿禰の一族との関係も、がっちりと保たねばならなかった。 卅一年春正月癸丑朔丁卯　立大兄去來穂別尊　爲皇太子 三十一年の春正月（むつき）の癸丑（みづのとのうし）の朔（ついたち）丁卯（ひのとのうのひ）（AD343.01.15）に、大兄去來穂別尊（おほえのいざほわけのみこと）を立てて、皇太子（ひつぎのみこ）とす。 履中天皇即位前紀に、「時に年十五歳」、とある。二年（AD314.03）に、磐之媛を皇后とされ、十四年後の待ちに待ったはじめての御子の誕生。その年に、天皇が「桑田玖賀媛を愛まむと欲（おも）ふ」と切り出されて、磐之媛がお断りになられたのは、嫉妬深いで済ませやうか。書紀には、このやうなどんでんがえしが潜んでおり、油断がならない。それにしても、十五歳は、書紀においては、大変少（わか）くしての立皇太子である。大鷦鷯天皇（仁�ｺ天皇）の磐之媛を「猶し恋び思すこと」の証、配慮であるが、武内宿禰一族を安堵させるにも不可欠であったらう。 卅五年夏六月　皇后磐之媛命　薨於筒城宮 三十五年の夏六月（みなづき）（AD347.06）に、皇后（きさき）磐之媛命、筒城宮（つつきのみや）に薨（かむさ）りましぬ。 去來穂別尊の立皇太子の儀にも立ち会うことなく、四年が流れ、磐之媛はひっそりと、しかし、皇后として、その生涯を閉じられた。武内宿禰一族の将来の漠然たる不安を暗示するものであったかもしれない。 卅七年冬十一月甲戍朔乙酉　葬皇后於乃羅山 三十七年の冬十一月（しもづき）の甲戍（きのえいぬ）の朔乙酉（きのとのとりのひ）（AD349.11.12）に、皇后を乃羅山（ならのやま）に葬（はぶ）りまつる。 二年数ヶ月を経て、葬られたのは乃羅山と言ふ。葛城に戻ることも、河内に引き取られることもなかった。延喜諸陵式に「平城坂上墓<磐之媛命、在大和国添上郡、兆域東西一町、南北一町、無守戸>」陵墓要覧に「平城坂上陵、奈良県奈良市佐紀町字ヒシアゲ：地図」と見えると注される。佐紀丘陵、佐紀盾列（たてなみ）古墳群にあり、御陵の近くに歌姫越といふ街道がある。万葉集に、その歌が残されている。 　君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ（万2-85） 　（あなたが行かれて随分とたった。山を捜し尋ねて、迎へに行こうかしら。ひたすら、お待ちすればいいのかしら） 　かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根(いはね)し枕(ま)きて 死なましものを（万2-86） 　（このやうに恋しているのでなければ、高山の岩根を抱いて死んでしまおうものを） 　ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我(あ)が黒髪に 霜の置くまでに（万2-87） 　（住みついて、あなたのみを待ち、ただ靡（なび）く、わたしの黒髪に、白いものがおりるとも） 　秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ（万2-88） 　（秋の田の稲穂の上に霧のごとくたちこめる朝霞。いつの間にかどこかへ消えるやうに、わたしの恋がやんでくれればいいものを） 磐之媛は天皇を心待ちに待っておられた。古事記とも書紀とも異なる心が残されている。天皇を心の底から恋焦がれておられた。しかし、何があったのか？難波にも帰れず、葛城にも戻れず、歌姫と称され、人々にそのこころが伝へられた媛としか言いやうがあるまい。天皇は迎へにこられなかった。古事記や書紀がなんと言おうとも、この歌にこころを打たれぬものはあるまい。かの仁徳はいづこに？この地は、活目入彦五十狹茅天皇（垂仁天皇）の五年(BC25年)に、皇后狹穗姫が兄狹穗彦に従ひ命を絶った（書紀巻６）地でもある。磐之媛といひ、その一途な想ひが偲ばれる。 卅八年春正月癸酉朔戊寅　立八田皇女爲皇后　 秋七月　天皇與皇后　居高臺而避暑　時毎夜　自菟餓野　有聞鹿鳴　其聲寥亮而悲之　共起可怜之情　及月盡　以鹿鳴不聆　爰天皇語皇后曰　當是夕而鹿不鳴　其何由焉　明日　猪名縣佐伯部獻苞苴　天皇令膳夫以問曰　其苞苴何物也　對言　牡鹿也　問之　何處鹿也　曰　菟餓野　時天皇以爲　是苞苴者　必其鳴鹿也　因語皇后曰　朕比有懷抱　聞鹿聲而慰之　今推佐伯部獲鹿之日夜及山野　卽當鳴鹿　其人雖不知朕之愛　以適逢獼獲　猶不得已而有恨　故佐伯部不欲近於皇居　乃令有司　移郷于安藝渟田　此今渟田佐伯部之祖也　俗曰　昔有一人　往菟餓　宿于野中　時二鹿臥傍　將及鷄鳴　牝鹿謂牝鹿曰　吾今夜夢之　白霜多降之覆吾身　是何祥焉　牝鹿答曰　汝之出行　必爲人見射而死　卽以白鹽塗其身　如霜素之應也　時宿人心裏異之　未及昧爽　有獵人以射牡鹿而殺　是以　時人諺曰　鳴牡鹿矣　隨相夢也 三十八年の春正月の癸酉（みづのとのとり）の朔戊寅（つちのえとらのひ）（AD350.01.06）に、八田皇女を立てて皇后（きさき）としたまふ。 秋七月（ふみづき）（AD350.07）に、天皇と皇后と、高台（たかどの）に居（ま）しまして避暑（あつきことをさ）りたまふ。時に毎夜（よなよな）、菟餓野（とがの）より、鹿（か）の鳴（ね）聞こゆること有り。其の声（こゑ）、寥亮（さやか）にして悲し。共に可怜（あはれ）とおもほす情（みこころ）を起したまふ。月尽（つごもり）に及（いた）りて、鹿の鳴聆（きこ）えず。爰（ここ）に天皇（すめらみこと）、皇后に語りて曰（のたま）はく、「是夕（こよひ）に当（あた）りて、鹿鳴かず。其（そ）れ何に由りてならむ」とのたまふ。明日（くるつひ）、猪名県（ゐなのあがた）の佐伯部（さへきべ）、苞苴（おほにへ）献（たてまつ）れり。天皇、膳夫（かしはで）に令（のりごと）して問ひて曰（のたま）はく、「其（か）の苞苴は何物ぞ」とのたまふ。対（こたう）へて言（まう）さく、「牡鹿（しか）なり」とまうす。問ひたまはく、「何処（いづこ）の鹿ぞ」とのたまふ。曰（まう）さく、「菟餓野（とがの）のなり」とまうす。時に天皇、以爲（おもほ）さく、是（こ）の苞苴（おほにへ）は、必ず其（か）の鳴きし鹿ならむとおもほす。因りて、皇后に語りて曰（のたま）はく、「朕（われ）、比（このごろ）懐抱（ものおも）ひつつ有るに、鹿（か）の声（ね）を聞きて慰（こころやす）む。今佐伯部の鹿を獲（と）れる日夜（とき）及（およ）び山野（やまの）を推（おしはか）るに、即（すなは）ち鳴きし鹿に当（あた）れり。其（か）の人、朕（わ）が愛（よ）みすることを知らずして、適逢（たまさか）に獼獲（いえ）たりと雖（いへど）も、猶（なほ）已（や）むこと得ずして恨（うらめ）しきこと有り。故（かれ）、佐伯部をば皇居（みやこ）に近（ちかつ）けむことを欲（ほり）せじ」とのたまふ。乃ち有司（つかさ）に令（のりごと）して、安芸（あぎ）の渟田（ぬた）に移郷（つかは）す。此、今の渟田の佐伯部の祖（おや）なり。俗（くにひと）の曰（い）へらく、「昔、一人（ひとりのひと）有りて、菟餓（とが）に往（ゆ）きて、野の中に宿（やど）れり。時（とき）に二（ふたつ）の鹿（か）、傍（かたはら）に臥（ふ）せり。鷄鳴（あかつき）に及ばむとして、牝鹿（をしか）、牝鹿（めしか）に謂（かた）りて曰（い）はく、『吾（われ）、今夜（こよひ）夢（いめ）みらく、白霜（しろしも）多（さは）に降（ふ）りて、吾が身を覆（おほ）ふと。是（これ）、何の祥（さが）ぞ』といふ。牝鹿（めしか）、答へて曰（い）はく、『汝（いまし）、出行（あり）かむときに、必ず人の爲（ため）に射られて死なむ。即ち白塩（しほ）を以て其の身に塗られむこと、霜（しも）の素（しろ）きが如くならむ応（しるし）なり』といふ。時に宿（やど）れる人、心の裏（うち）に異（あやしぶ）ぶ。未及昧爽（あけぼの）に、猟人（かりびと）有りて、牡鹿を射て殺しつ。是（ここ）を以て、時人の諺（ことわざに）に曰（い）はく、『鳴く牡鹿（しか）なれや。相夢（いめあはせ）の隨（ままに）に』といふ」といへり。 菟道稚郎子が亡くなって39年、八田皇女は相当歳をめされて皇后となられた。そこまでして皇后に迎へるといふのも、いささかも異様である。天皇には心の晴れぬ思ひがおありのやうであった。 菟餓野については、気長足姫尊（神功皇后）の元年でみた。「〈摂津国風土記〉逸文に、夢野に住む鹿夫婦の夢占いの話が語られている。この風土記の内容とよく似た鹿（菟餓野に住む）の夢告の話が、〈日本書紀〉巻11　仁徳天皇38年秋7月条にもある。天平19年（747）〈法隆寺資財帳〉には、法隆寺領山林として、摂津国雄伴郡宇治郷宇奈五岳の四至に、北限伊米野の古名が見え、この伊米野が夢野にあたるとされる。また夢野の地名は、禁野（いみの）で、朝廷の御猟場で禁猟地になっていたからとも考へられている。この〈風土記逸文〉と〈日本書紀〉に登場する故事にちなんで、菟餓野の地を、この夢野としたとする説であるが、菟餓野は、灘区都賀川（地図）付近とも、大阪市北区兎我野町（地図）であるとも考へられている（神戸市文書館）」とあった。難波の宮の高台から聞こえるとなれば、兎我野町とならう。 月尽に及りてとあり、七月末に鹿の鳴き声が聞こえなくなった。猪名県は和名抄の摂津国河辺郡為奈郷、猪名川（地図）の両岸の地域。苞はわらで包んだもの、苴は品物の下に置く草で編んだ敷物、苞苴で贈り物の義であった。八月の初めに猪名縣の佐伯部から苞苴が獻上されてきた。菟餓野で捕獲した牡鹿の肉であった。摂津国風土記逸聞文では、「雄伴郡に夢野有り。父老相伝に云ふ。昔、刀我野に牡鹿有り。其の嫡牝鹿（正妻）は此の野に居り、其の妾牝鹿（愛人）は淡路国野島に居り、彼の牡鹿は屡（しばしば）野島に往く。妾と相愛し比なし。既にして牡鹿、嫡所（正妻）に来宿す。明旦、牡鹿、其の嫡に語りて云ふ。今夜の夢、吾が背に雪零（お）ちおきりと見し。又曰く、ススキ草生えたりと見し。此の夢何の祥ぞ。其の嫡、夫復（また）妾所に向かうを悪（にく）みて、乃ち詐相して曰く、背の上に草生えるは、矢背の上に射るの祥。又雪零（お）ちるは白塩宍（肉）に塗るの祥。汝、淡路の野島に渡るは、必ず船人に遭ひ、海中に射死す。謹みて復往くこと勿れ。其の牡鹿、感恋に勝てず、復野島に渡る。海中に行船に遇逢し、終（つひ）に射死す。故、此の野を名づけて夢野と曰ふ。俗説に云ふ。刀我野に立てる真牡鹿も夢相のまにまに」とある。時人の諺に曰く、『鳴く牡鹿なれや。相夢の隨に。（鳴く鹿じゃないが、正夢になってしまった）』といふくらいであるから、よく知られた伝承である。 誉田天皇（応神天皇）の十三年条（書紀巻10）の一説に、角を著ける鹿の皮を着た人間が淡路嶋から播磨に泳ぎ渡る話がでてくる。淡路島は天皇の狩場のあるところで、誉田天皇が髪長媛を淡路嶋に召すといふことがあった。実際に鹿でなく、高貴なる人物が淡路島に意中の女性を訪ね、殺されるやうな事件があったのかもしれない。菟餓野も朝廷の狩場であり、佐伯部が誤って高貴なる人物を傷つけるといふ事件があったのかもしれない。佐伯部は、各地に置かれた蝦夷を主体とする部民で、軍事・警衛に当たる。景行紀に播磨以下五国の佐伯部のことがみえる、と注される。「神宮に献れる蝦夷等、晝夜喧り譁きて、出入礼無し。時に倭姫命、曰はく、『是の蝦夷等、神宮に近つくべからず』とのたまふ。則ち朝庭に進上ぐ。仍りて、御諸山の傍に安置はしむ。未だ幾時を経ずして、悉に神山の樹を伐りて、隣里に叫び呼ひて、人民を脅す。天皇、聞しめして、群卿に詔して曰はく、『其の神山の傍に置らしむる蝦夷、是本より獣心有りて、中国に住ましめ難し。故、其の情の願に隨に、邦畿之外に班らしめよ』とのたまふ。是今、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波　凡五国佐伯部之祖なり（書紀巻７）」。 天皇は菟餓野の鹿の鳴き声に心を癒されたといふ。天皇の心にあった憂ひとは何であったらうか？八田皇女と語り合うとなれば、牝鹿であれば、磐之媛を連想させられやうが、牡鹿となれば、菟道稚郎子とならうか？佐伯部の者がその鹿を殺して、肉にして献上した。知らずとはいへ恨めしいことといふ。 移郷は、律の用語で、赦にあった殺人犯人を、死者の親族の復讐より免かれしめるため、他郷に移配すること、と注される。といふことは、佐伯部が復讐されないやうに移配されたことになり、罪をかぶった可能性も伺へる。非常に微妙な事件を、この話にすりかへ、佐伯部の先祖で安芸の渟田、和名抄、安芸国沼田郡沼田郷(広島県竹原市付近か）に移された経緯とした。世間ではそのことを、鹿が自分が殺される夢を見て実際殺されたと噂している話である、といふことだが、風土記の話の方が面白いし、筋も通る。 卌年春二月　納雌鳥皇女欲爲妃　以隼別皇子爲媒　時隼別皇子密親娶　而久之不復命　於是　天皇不知有夫　而親臨雌鳥皇女之殿　時爲皇女織縑女人等歌之曰　比佐箇多能　阿梅箇儺麼多　謎迺利餓　於瑠箇儺麼多　波揶歩佐和氣能　瀰於須譬鵝泥）　 四十年の春二月（きさらぎ）（AD352.02）に、雌鳥皇女（めとりのひめみこ）を納（いれ）れて妃（みめ）とせむと欲（おもほ）して、隼別皇子（はやぶさわけのみこ）を以て媒（なかだち）としたまふ。時に隼別皇子、密（ひそかに）に親（みづか）ら娶（と）りて、久（ひさ）に復命（かへりことまう）さず。是に、天皇、夫（をうと）有ることを知りたまはずして、親ら雌鳥皇女の殿（よどの）に臨（いでま）す。時に皇女（ひめみこ）の爲に織縑（はたお）る女人等（をみなども）、歌（うたよみ）して曰はく、 　比佐箇多能（ひさかたの）　阿梅箇儺麼多（あめかなばた）　謎迺利餓（めとりが）　於瑠箇儺麼多（おるかなばた）　波揶歩佐和氣能（はやぶさわけの）　瀰於須譬鵝泥（みおすひがね 　ひさかたの　天金機（あめかねばた）　雌鳥（めとり）が　織（お）る金機（かねばた）　隼別（はやぶさわけ）の　御襲料（みおすひがね） 古事記に曰く、「天皇、その弟（おと）速總別（はやぶさわけ）の王を媒（なかびと）として、庶妹（ままいも）女鳥（めどり）の王を乞ひたまひき。ここに女鳥の王、速總別の王に語りて曰（い）ひけらく、「大后の強（おず）きによりて、八田の若郎女を治（をさ）めたまはず。故、仕へ奉らじと思ふ。吾（あ）は汝（いまし）命（みこと）の妻（め）にならむ」といひて、すなはち相婚（あ）ひき。ここをもちて速總別の王、復（かえりごと）奏（まを）さざりき。ここに、天皇、女鳥の王の坐（いま）す所に直（ただ）に幸（い）でまして、その殿戸の閾（しきみ）の上に坐（いま）しき。　ここに、女鳥の王、機（はた）に坐して服（みそ）織（お）りたまへり。ここに、天皇歌ひたまひしく、 　女鳥（めどり）の　我（わ）が王（おほきみ）の　織（お）ろす機（はた）　誰（た）が料（たね）ろかも とうたひたまひき。女鳥の王、答へて歌ひたまひしく、 　高行（たかゆ）くや　速總別（はやぶさわけ）の　御襲衣料（みおすひがね） とうたひたまひき 。故、天皇、その情（こころ）を知りたまひて宮に還り入りましき。この時、その夫（ひこぢ）速總別の王到來（き）ましし時、その妻（め）女鳥の王、歌ひたまひしく、 　雲雀（ひばり）は　天（あめ）に翔（かけ）る　高行くや　速總別（はやぶさわけ）　鷦鷯（さざき）取らさね とうたひたまひき。天皇、この歌を聞きたまひて、すなはち軍（いくさ）を興（おこ）して殺さむとしたまひき。ここに、速總別の王、女鳥の王、共に逃げ退（そ）きて倉椅（くらはし）山に騰（のぼ）りき。　ここに速總別の王、歌ひたまひしく、 　梯立（はした）ての　倉椅（くらはし）山を　嶮（さが）しみと　岩かきかねて　我（わ）が手取らすも とうたひたまひき。また歌ひたまひしく 　梯立（はした）ての　倉椅山は　嶮（さが）しけど　妹（いも）と登れば　嶮（さが）しくもあらず とうたひたまひき。故、其地（そこ）より逃げ亡（う）せて、宇陀（うだ）の蘇邇（そに）に到りし時、御軍（みいくさ）追ひ到りて殺しき。その將軍（いくさのきみ）山部（やまべ）の大楯（おおだて）の連（むらじ）、その女鳥の王の御手に纏（ま）かせる玉釧（たまくしろ）を取りて、己が妻（め）に與へき。この後（のち）、豐樂（とよのあかり）したまはむとする時、氏氏の女等（をみなども）、皆朝參（みかどまゐ）りしき。ここに、大楯の連の妻、その王（みこ）の玉釧を、己が手に纏きて參り赴きき。　ここに大后、石之日賣の命、自（みづか）ら大御酒（き）の柏（かしは）を取りて、諸（もろもろ）の氏氏の女等に賜いき。ここに大后、その玉釧を見知りたまひて、御酒の柏を賜はずして、すなはち引き退（そ）けき。その夫（を）、大楯の連を召し出（いだ）して詔りたまひしく、「その王等（みこたち）、禮（ゐや）無（な）きによりて退（しぞ）けたまひき。こは異（け）しき事無くこそ。それ奴（やつこ）や、己が君の御手に纏かせる玉釧を、膚（はだ）も慍（あたた）けきに剥（は）ぎ持ち來て、すなはち己が妻に與へつる」とのりたまひて、すなはち死刑（ころすつみ）を給ひき。（岩波文庫）」 雌鳥皇女は八田皇女の妹、書紀的には相当のお歳となる。隼別皇子は、誉田天皇（応神天皇）と糸媛の子（書紀巻１０）、大鷦鷯天皇の異母の弟となる。書紀と古事記では状況が異なるが、まず、古事記の言ふところを聞いてみたい。 雌鳥皇女は女鳥王、隼別皇子は速総別王。天皇の皇后は石之日売命。天皇は八田若郎女を妃にできなかったため、その妹を乞ひ、異母弟の速総別王に仲介を頼んだ。女鳥王は、石之日売命が皇后である以上、姉と同じ運命を辿ることが分かっていながら求めてくる天皇に拒否反応を示し、逃げるためには速総別王に頼るしかないと決断したのであらう。天皇が機織をしているところへ、自ら乗り込んでこられ、誰のために織っているかと問はれると、速総別王の為であり、あなたの為ではない、妃になる気はないとお断りになった。 天皇はやはり無理があるかと引き下られたが、間の悪いことに、速総別王が姿を見せてしまった。妻となっていた女鳥王は、姉のこともありついつい本音が口をついてしまった。鷦鷯（みそさざい）は日本では最小のスズメ目ミソサザイ科の鳥。雲雀でさえ天に駆け上ることはできる。しかし隼のやうに天高く飛び回ることはできない。”〜らさね”は依頼し要求すること。雲雀さえも飛べない鷦鷯なんか取ってしまってくださればいいものを。この歌を聞いた天皇は、先回りして兵を差し向け、鷦鷯が隼を追い詰めて殺すことになった。 八田若郎女の嘆きはいかばかりであったらうか。とても仁徳とは云へぬ。速総別王こそ、仲介を頼まれたばかりに、反逆者にされてしまった。ところが書紀では、様相ががらっと異なる。 天皇は八田皇女を皇后としたことにより、もともと磐之媛と並んで妃になることに同意していた八田皇女のこと、その妹を並べても問題はないと、隼別皇子を媒（なかだち）にして話をすすめやうとした。それを密かに隼別皇子が雌鳥皇女を娶って戻って来なかったといふ。雌鳥皇女の里は、和珥氏の山背の筒城方面とならうか、天皇自らその殿（寝室）に乗り込もうとされると、縑（かとり絹：より合わせた糸で堅く織った絹）を織る女達が歌を詠んだ。ともかく人名が鳥ばかりであり、ひさかたの（枕詞）、天となる。金機とは当時では最新の金属が用いられた機（はた）と注される。和珥氏のご自慢の織機で神衣、皇族用の絹織物であらう。その糸で雌鳥皇女が織っているのは隼別皇子の襲（衣裳）。襲は世襲の襲でもあり、夫への晴着であったらう。書紀だけを読めば隼別皇子が雌鳥皇女に天皇の意向を伝へていたかどうかは定かではない。隼別皇子が一方的に事態を進行させてていることだけは確かである。 爰天皇知隼別皇子密婚　而恨之　然重皇后之言　亦敦友于之義　而忍之勿罪　俄而隼別皇子　枕皇女之膝以臥　乃語之曰　孰捷鷦鷯與隼焉　曰　隼捷也　乃皇子曰　是我所先也　天皇聞是言　更亦起恨　時隼別皇子之舍人等歌曰　破夜歩佐波　阿梅珥能朋利　等弭箇慨梨　伊菟岐餓宇倍能　娑奘岐等羅佐泥　天皇聞是歌　而勃然大怒之曰　朕以私恨　不欲失親　忍之也　何舋矣私事將及于社稷　則欲殺隼別皇子　時皇子率雌鳥皇女　欲納伊勢�~宮而馳　於是　天皇聞隼別皇子逃走　卽遣吉備品遲部雄鯽　播磨佐伯直阿俄能胡曰　追之所逮卽殺　爰皇后奏言　雌鳥皇女　寔當重罪　然其殺之日　不欲露皇女身　乃因勅雄鯽等　莫取皇女所齎之足玉手玉　雄鯽等追之至菟田　迫於素珥山　時隱草中僅得免　急走而越山　於是　皇子歌曰　破始多氐能　佐餓始枳揶摩茂　和藝毛古等　赴駄利古喩例麼　揶須武志呂箇茂　爰雄鯽等知免　以急追及于伊勢蒋代野而殺之　時雄鯽等　探皇女之玉　自裳中得之　乃以二王屍　埋于廬杵河邊　而復命　皇后令問雄鯽等曰　若見皇女之玉乎　對言　不見也　 是歲、當新嘗之月　以宴會日　賜酒於内外命婦等　於是　近江山君稚守山妻與釆女磐坂媛　二女之手　有纏良珠　皇后見其珠　旣似雌鳥皇女之珠　則疑之　命有司　推問其玉所得之由　對言　佐伯直阿俄能胡妻之玉也　仍推鞫阿俄能胡　對曰　誅皇女之日　探而取之　卽將殺阿俄能胡　於是　阿俄能胡　乃獻己之私地　請贖死　故納其地赦死罪　是以　號其地曰玉代 爰（ここ）に天皇（すめらみこと）、隼別皇子（はやぶさわけのみこ）の密（ひそかに）に婚（たは）けたることを知りたまひて、恨みたまふ。然（しか）るに皇后（きさき）の言（こと）に重（はばか）り、亦友于（このかみおとと）の義（ことわり）に敦（あつ）くまして、忍（しの）びて罪（つみ）せず。俄（しばらく）ありて隼別皇子、皇女（ひめみこ）の膝に枕して臥（ふ）せり。乃（すなは）ち語りて曰（い）はく、「鷦鷯（さざき）と隼（はやぶさ）と孰（いづれ）か捷（と）き」といふ。曰はく、「隼は捷し」といふ。乃ち皇子（みこ）の曰はく、「是（これ）、我（わ）が先（さきだ）てる所なり」といふ。天皇、是（こ）の言を聞（きこ）しめして、更に亦恨を起したまふ。時に隼別皇子の舍人等（とねりども）、歌（うたよみ）して曰はく、 　破夜歩佐波（はやぶさは）　阿梅珥能朋利（あめにのぼり）　等弭箇慨梨（とびかけり）　伊菟岐餓宇倍能（いつきがうへの）　娑奘岐等羅佐泥（さざきとらさね） 　隼（はやぶさ）は　天（あめ）に上（のぼ）り　飛（と）び翔（かけ）り　斎（いつき）が上（うへ）の　鷦鷯（さざき）取（と）らさね 天皇、是の歌を聞こしめして、勃然（はなはだ）大（おほ）きに怒りて曰（のたま）はく、「朕（われ）、私（わたくし）の恨を以て、親（はらから）を失（うしな）はまほしみせず、忍（しの）びてなり。何ぞ舋（きず）ますとして私の事をもて社稷（くに）に及さむ」とのたまふ。則（すなは）ち隼別皇子を殺さむと欲（おもほ）す。時に皇子、雌鳥皇女（めとりのひめみこ）を率（ゐ）て、伊勢�~宮（いせのかむみや）に納（まゐ）らむと欲（おも）ひて馳（は）す。是（ここ）に、天皇、隼別皇子逃走（に）げたりと聞しめして、即（すなは）ち吉備品遲部雄鯽（きびのほむちべのをふな）・播磨佐伯直阿俄能胡（はりまのさへきのあたひあがのこ）を遣（つかは）して曰はく、「追ひて逮（し）かむ所に即ち殺せ」とのたまふ。爰に皇后、奏（まう）して言（まう）したまはく、「雌鳥皇女、寔（まこと）に重き罪に当れり。然れども其の殺さむ日に、皇女（ひめみこ）の身を露（あらは）にせまほしみせず」とまうしたまふ。乃（すなは）ち因りて雄鯽等（をふなら）に勅（みことのり）したまはく、「皇女の齎（も）たる足玉（あしだま）手玉（ただま）をな取りそ」とのたまふ。雄鯽等、追ひて菟田（うだ）に至りて、素珥山（そにのやま）に迫（せ）む。時に草の中に隠れて、僅（わづか）に免るることを得（う）。急（すみやか）に走（に）げて山を越ゆ。是に、皇子、歌して曰はく、 　破始多氐能（はしだての）　佐餓始枳揶摩茂（さがしきやまも）　和藝毛古等（わぎもこと）　赴駄利古喩例麼（ふたりこゆれば）　揶須武志呂箇茂（やすむしろかも） 　梯立（はした）ての　嶮（さが）しき山（やま）も　我妹子（わぎもこ）と　二人（ふたり）越（こ）ゆれば　安蓆（やすむしろ）かも 爰に雄鯽等（をふなら）、免（まぬか）れぬることを知りて、急に伊勢の蒋代野（こもしろのの）に追（お）ひ及（し）きて殺しつ。時に雄鯽等、皇女の玉を探（さぐ）りて、裳（も）の中より得つ。乃ち二（ふたり）の王（みこ）の屍（かばね）を以て、廬杵河（いほきがは）の辺（ほとり）に埋（うづ）みて、復命（かへりごとまう）す。皇后、雄鯽等に問はしめて曰はく、「若（も）し皇女の玉を見きや」とのたまふ。対（こと）へて言（まう）さく、「見ず」とまうす。 是歳（ことし）、新嘗（にひなへ）の月に当りて、宴会（とよのあかり）の日を以て、酒（おほみき）を内外命婦等（ひめとねたち）に賜ふ。是に、近江山君（あふみのやまのきみ）稚守山（わかもりやま）が妻（め）と釆女（うねめ）磐坂媛（いはさかひめ）と、二（ふたり）の女（をみな）の手に、良き珠（たま）纏（ま）けること有り。皇后（きさき）、其の珠を見（め）すに、既に雌鳥皇女（めとりのひめみこ）の珠に似たり。則ち疑ひて、有司（つかさ）に命（みことのり）して、其の玉を得し由（よし）を推（かむが）へ問はしめたまふ。対へて言（まう）す、「佐伯直（さへきのあたひ）阿俄能胡（あがのこ）が妻（め）の玉なり」とまうす。仍（よ）りて阿俄能胡を推へ鞫（と）ふ。対へて曰（まう）さく、「皇女（ひめみこ）を誅（ころ）しし日に、探（さぐ）りて取りき」とまうす。即ち将（まさ）に阿俄能胡を殺さむとす。是に、阿俄能胡、乃ち己（おの）が私（わたくし）の地（ところ）を献（たてまつ）りて、死贖（しぬるつみあがな）はむと請（まう）す。故（かれ）、其の地を納（をさ）めて死罪（しぬるつみ）を赦（ゆる）す。是を以て、其の地を号（なづ）けて玉代（たまて）と曰（い）ふ。 天皇は、隼別皇子が密かに雌鳥皇女を娶ったことを知るが、それは古事記によれば、かつて自らが、誉田天皇（応神天皇）に献上された髪長媛を横取りしたこともあり、いかなる皇后の言を慮られたものか、恨まれたとはいへ、自重された。天皇の意向が雌鳥皇女に伝へられていなければ、騒ぎ立てぬことで収束させることは出来た。隼別皇子はそのまま黙って雌鳥皇女を妻にしておけばよかったものを、膝枕で（ふ）臥せっていると、優越感が口をつき、「鷦鷯と隼と孰か捷（と）き。」と答を求めてしまった。 捷（とし）は「すばやい」ことであるが、戦いに勝つことでもある。鷦鷯と隼のどちらが捷と聞かれれば、だれでも隼が捷と答へやう。それが舎人たちにも聞こへ、調子に乗った舎人達が、隼は天に上り、天を飛び駆ける、地上の祭殿を飛び交う鷦鷯なんぞ取っておくれ、と囃し立てたことが、難波の天皇の耳に入った。 私の恨みと自重していたが、さういふ噂が広まれば社稷（くに）の問題として罪を問はねばならぬ。天皇は隼別皇子を殺す決断をする。隼別皇子が雌鳥皇女を置いて逃げれば、皇后の妹であり命を奪はれることはあるまいに、連れ出し、伊勢神宮に納れ天皇から離そうとした。雌鳥皇女もそれを願ったのであらう。天皇は、吉備品遲部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡に二人を殺すことを命じた。姉である皇后も、一緒に妹が逃げたことで、重き罪に当たり死を免れぬと心を決められたが、妹が身に纏う装身具を付けたまま埋葬し、くれぐれも、皇女として常世の国へ送るやう願はれ、天皇はそうするやう厳命された。これをみていると、反逆者とされたかの狹穗姫が思ひ起こされる（書紀巻６）。この話もまた、反逆者といふべきか？ 吉備品遲部雄鯽の品遲部は、和名抄、備後国品治郡（広島県福山市新市町：地図）、活目入彦五十狹茅天皇（垂仁天皇）の二十三年（書紀巻６）鵠（くぐひ）を飼ふ鳥取造の姓（かばね）の鳥取部、鳥養部、誉津部の誉津部のことと注される。誉津別命は活目入彦五十狹茅天皇（垂仁天皇）と狹穗姫の間の子（書紀巻６）、その子孫が雌鳥皇女を殺すことになるとは、何たる運命のいたずら。 播磨佐伯直阿俄能胡、先に見た佐伯部で、播磨風土記、神前郡多駝里の条に、「大御伴人佐伯部等始祖阿我乃古」とあり、品太天皇（応神天皇）が巡行したとき、阿我乃古がこの土を請い欲すと申し出たのに対し、天皇は直接にも請願したものだなといったので、多駝と号する里名が生じたと注される。古事記は、山部大楯連としていた。 菟田の素珥山は、大和国宇陀郡室生村の曽爾谷（奈良県宇陀郡曽爾村；地図）と注される。山であるから曽爾高原を越えたとならうか。古事記ではここで殺されたとし、歌を詠んだのは倉橋山（奈良県桜井市倉橋「地図」の南方の山：音羽山か）といふ。”梯立（はした）ての”は、梯子をたてたやうな岩壁の、で倉橋山にかかる枕詞。女鳥王が岩に手をかけて登ることはできないほど険しいので、手を差し出してとらせた。しかし、妻と登るのであれば、どうして険しいものか。書紀にあっては、二人で越へれば　安らかな蓆（草のしきもの、おおいなる）と、逃避行の辛さ、惨めさなどはどこへやら、二人は、おおいなる愛を交はしておられた。蒋代野が不詳とされが、廬杵河の辺は、三重県一志郡の雲出川の岸にある家城町（三重県津市白山町北家城:地図）あたりであらう、と注される。地元で、夫婦塚といふ遺跡があり、二人の墓とされる（三重県神道青年会）。この時、雄鯽は、先祖の狹穗姫を想えば、二人を見逃すべきであり、殺さざるえないとしても、少なくとも手厚く二人を葬るべきものであるに、雌鳥皇女の玉を奪っていた。 新嘗の月は、後世では、十一月で、卯の日に祭儀があり、翌日の辰の日に豊明節会が行われる、職員令義解に、「婦人、五位以上を帯びるを内命婦と曰ふなり、五位以上の妻を内命婦と曰ふなり」と注される。近江山君稚守山は不明であるが近江狹狹城山君と関係があると注される。佐々木・鷦鷯についての雑考(古樹紀之房間)によれば、「太田亮博士の指摘のとおり、佐々木氏は古代の佐々貴山君（狭々城山君、佐佐紀山君）の後裔であることが著しい。・・・、『佐々木＝鷦鷯（雀）』といふことである。次に、『山君』とは、太田亮博士がいふやうに『山部を率ゐし君姓の氏を云ふ』であり（佐伯有清氏も同旨で、『山は山部・山守部の伴造氏族であったことに由来する』＊5）、これを併せ考えると、佐々貴山君（狭々城山君）とは、その実体は『雀部＋山君』であり（従って、その後裔が『山君』を除いて、単に『佐々貴』あるいは『佐々木』と名乗ったのも肯ける＊6）、仁徳の御名代雀部の山関係の管掌氏族であったといふことである」とある。近江狹狹城山君は鷦鷯天皇方の山部となる。古事記は、玉釧を奪ったのは山部大楯連としている。稚守山は、その名のごとく、山部であったと推測できるが、大楯連と通じている側とならう。山川林野を掌り、乱を起こし討たれた大山守皇子の系統と想定すれば、雌鳥皇女にいい思ひを抱いていなかったと云へやう。 稚守山の妻と釆女磐坂媛とが、雌鳥皇女のものと思われる玉を手に纏ひて宴会に出席した。おそらくは堅く口止めのできる内輪の妻や采女に分散して、それとは分からぬやうに細工していたと思はれるが、疑ひを抱いていた皇后の目はごまかせなかった。出所は、雄鯽ではなく、佐伯直阿俄能胡の妻とされてしまった。雄鯽がよほど上手く立ち回ったのか、誉津別命の子孫といふことで免れ得たのか、佐伯直のみが窮地に陥ったやうである。己が地を献りて死罪を免れた、その地を玉代（たまて）と云ふ。ならば、播磨佐伯直阿俄能胡が玉代に地を有していたことになる。品太天皇（応神天皇）の時代から播磨に居たとなると、この話は妙なことになる。玉代は大和国葛上郡玉手丘、河内国安宿郡、玉手山、玉手村がある、と注される。このいづれかから、播磨に移されたと見るほうがつじつまが合ふ。播磨風土記が成立しなくなり困るが。佐伯部が安藝の渟田に移配されたといふ話があったが、どうも佐伯部は損な役回りを押し付けられていたやうに見へる。 了　2008.12.01　更新　2022.10.26
岩倉紙芝居館　古典館　日本書紀　11-2 上田　啓之 .